当の理由があるわけだ。それは富士が日本ではなくて、日本的現実の単なる抽象であることに気をつけたらいゝ、従つて富士を描くことを怖れる心理と、描くことの愚かしさと二つあるのであつて、それらは画家の怖れであり、愚かしさであるだけであつて、富士そのものにとつては少しも責任がないのである。たまたま独逸からアーノルド・ファンク博士といふ映画監督がきて、映画『新しき土』の中で富士をファンク博士が、富士を細長くとつたり、真丸く撮つたりしたといつて、或る日本主義者がそんな格好の富士は日本の富士ではない、ファンク博士の歪曲だといつて憤慨したさうであるが、ファンク博士許りではない、これまでにもたとへば地質学者などはとつくに『富士は三角』といふ概念をうちこはした富士の見とり図を描いてゐる筈である。
 ただ画家だけが概念を変革する力をもつてゐずに、それを描くことを避け、無神経に描いてゐるだけである。そして現在に到つただけである、画家がまごまごしてゐる間に、画家以外の科学的な態度で仕事をしてゐる人々がどんどんと抽象的な日本、概念的な日本を覆して真実な日本を表現してゐるわけだ、立派に現実的基礎から出発して、超現実とも呼ばれるものが生れてゐるのを見のがして、『超現実』といふ言葉や他人の主張の尖端にとびついてゐては、ほんとうの意味の超現実の絵画などは書けることがないだらう。
 仏蘭西の新進超現実派の作家サルウァドル・ダリの評論をみても、決して日本のシュルの作家のやうな甘い考へをそこでは述べてはゐない、ダリはセザンヌを観念的唯物主義者とみてゐるといふことは、私も正しいと思ふ、然しながらダリのセザンヌへの反撥のことごとくがダリとあのやうに新しい絵を描かせてゐるのであるし、同時にその反撥が彼の絵の弱点を生んでゐるのである。
 観念的唯物論者としてのセザンヌが果した役割を理解しなくては、決してセザンヌを一歩も越えることができない。より強く否定したかつたなら、より強く肯定してからでなければならない、日本画の伝統を否定したかつたなら、それをよく理解し肯定するといふ仕事が残つてゐる、芸術とは現実への反撥だけで成り立つといふ態度は決してその作家を大きく肥しはしないのである、ダリは幾分さうした反撥の作家でありもしダリが現在のやうな態度をつづけて行くとしたら、ダリの行き詰りは明らかなものであり、ダリ的傾向を追ひ廻してゐ
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