『月苦沙寒』といつた作品は、その手法も構図も、多分に整理されたもので、その意味で技巧的な作品であり、また従つて作品の佳さもはつきりとわかる作である。しかしこの種の作品ではなく、私のいふ『錯雑たる自然』を描くことの妙手であるといふ意味は、桂月氏がその材料を、殆ど雑草園か廃墟からでも求めてきたのではないかと思はれる場合の作品で、もつともよくこの作者の自然観、人柄、実力、そしてそこには一人の人物も描かれてゐないが、人間観をさへ発見できるのである。私はこれらの作品を非感傷的な桂月氏の作品と呼んでゐるが奉讃展の『潭上余春』とか『春郊』とか『秋晴』などがそれである。殊に後者二点には、手法が人工的であるに拘はらず芸術態度が写実的であるといふ意味で、作者の人間的圧[#「圧」に「ママ」の注記]力がよく現はれた作といふことができる。
敢て私が桂月氏は廃園や雑草園の一隅を描くといつたのは、さういふ場所を描いてゐるといふ意味でいつたのではない。さういつた意味は、廃園や、雑草園などは、草木に対して、自然の雨露、風雪の加はり方が、もつとも自然な放任されたものであつて、桂月氏の作品のこの種のものは、さうした在りの儘の自然を描いてゐるといつた意味で廃園、雑草園的だといつただけである。同氏のこれらの特長的な作品をみると、松の枝へからみついた細い一本の蔓草があるとすれば、その蔓草は実に丹念に、気の済むほどに捲きついてゐるのである。小さな自然物の生命の向ひ方、動き方は、その蔓草の先端の行方を辿つてゆけば判る。作者桂月氏は、松の枝の屈折の仕方に人工的なものを加へない、描写の上では加へてゐるが、対象の事実を歪曲しない、これらの松の枝は、くねくねといろいろの角度に曲つてゐる。この松の木の運命を語るものは、この幹の形にもあるが細い枝のその曲り方と、行方にも関係がある。桂月氏の粘着力はさうした場合に最もよく発揮されてゐる。そこでは桂月氏の写実力よりも、写実的態度が問題になる。小さな赤い南天のたつた一粒の実が語る、この自然物の運命といふものは、なかなかに興味の深いものがある。桂月氏の作品をみる楽しみは第三者は、さうしたところに求めなければいけないやうに思ふ。また画壇の後進者も、その点を認めなければいけないと思ふ。桂月を論ずる場合には、桂月の写実精神を論じなければならない。写実を除外して桂月の値打は存在しないのであ
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