な違ひがあるだらう。今度の展覧会をみたが、堂々たるもので、龍子、関雪、翠雲、大観の錚々たるところを筆頭に大体に於て画壇で社会的地位を代表した画家を並べ、またどういふ縁故関係かおそろしく無名な画家も四、五を添へ先づ見た眼は相当な粒揃ひであつた。作品の出来も僕は小品揃ひではあるが大体に良心的なものが多かつたやうに思ふ。
 商人といふものは専門家でないやうでゐて、それが専門絵画に関する専門的な見方、どれが良いとか、どの画家を選ぶべきかといふ事は他が考へるやうに無鑑識なものではない。それは商人の特質ともいふべきものであつて、より多く儲かる商品をより高く売り得る商品を発見するといふ才能は芸術専門を以て自任してゐる専門家よりもその職業が一そう敏感な働きをもつものである。だから商人の商品価値の眼識をもつて芸術家の芸術価値へ眼鏡を与へる場合、相当な眼識をもつて芸術家の芸術性の殆んどのパーセンテージを知る事が出来るのである。試みに一人の専門に洋傘を製造してゐる職人、或は皮革製品の専門職人と、デパートのその売場専門の係員へと専門商品に就いて討論さしてみたまへ。おそらく専門職人が知らない種々な知識をもつてゐるといふ事を知るだらう。それと同様にこの種の三越日本画展は早晩専門職人以上の美術鑑賞をデパートに与へるやうになる事はハッキリしてゐる。結局画家諸君が自分の作品を持ち込み、展覧会をひらきそれを繰り返す過程にすつかり商人教育が成り立つであらうといふ事は明らかである。
 そこで何故僕は専門画家以上に日本画についての一般眼識が商業資本家に握られるかといふ事を考へてみよう。
 それは解り易く言へば美術品が商品化の世界へ手渡された瞬間に、美術家は下駄製造職人と何ら変らないところの職人性へ立場を置かざるを得なくなるからである。悲しいかな美術家の特殊性といふものはその作り上げるものゝ特殊性である。そして自分の労働の生産品をよくしよう、発展させようとすればする程、その方法として専門化してゆかなければならない。それが勢ひ特殊な労働といふものは特別な画家といふ他と違つた専門的な立場へ自分を置くようになる。
 その労働の専門化、限定性といふものがとりも直さず職人性と呼んでよいものである。たゞ下駄職人と美術家と違ふ点は下駄職人は自分の拵らへるものに一つの美を発見するといふことはあるだらう。だが正義観、道徳観で下
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