索的テーマを離れたものであるだけ成功とはいへない。『触手ある風景』は絵かきを驚ろかすことができるが文学者には首をひねらす絵である。

    第九室

 伊藤簾[#「伊藤簾」に傍点] 「雨霽」(熊野川)「静物」 この絵には良く人柄がでゝゐるし、すでに心境的作家に入つた絵である。心境的になるといふことが良いことであるか悪いことであるか性急に決めることができないが、若し心境的といふことが仕事の上の早老であるとすれば問題である。

    第十室

 須田金太郎[#「須田金太郎」に傍点] 「水浴」「少女」この人からは近代人の古典画作りといふ感がした。この感は遺作を列べてゐる三岸好太郎の諸作にも同様のことが言へる。三岸の場合は須田より年齢的に若いだけに一層その感が適用されるだらう。したがつて三岸の「人物」画よりも三岸らしい才能を発揮したものはシュルな貝殻や海へ傾けた近代人としての神経の細かなケイレンの感の美しさがある。
 須田の場合は同じ古典画作りとしても、須田式な現実感があり、能動的な虚無主義者として躍如としてゐる。須田の絵からは一つの寂漠感と現実の否定的とを引きだすことができる。須田の絵の批評の場合は、彼の抱いてゐる世界観で踏みこんでいかない限り批評することができない。須田に色調を斯う変へてくれとか、材料が今どき「水浴」でもあるまいなどと注文したところで注文する方が愚の骨頂であらう。彼の絵には現実の空間に対して特殊な認識がありそれが彼の絵をボッと霞んだ不透明なやうな透明なやうな絵を描かせてゐる。
 だから時には遠くの物を前景のものより明瞭に見るといふ場合が彼の場合多くある。そして視覚的意味に於ける前景無視の彼独特の処理の仕方に対して、私は一つの意見をもつてゐる。彼の激しい対象の追求の方法は私は好きだが本人が意図してゐるかどうか判らぬが意図の究極的なまとめ上げを客観的に観るときには、彼はそのまとめ上げを『光り』をもつて最後を制約してゐるといふことだけははつきりといふことができる。彼を虚無主義者とみ、しかもその能動性をみたのは、彼は如何なる肉体其他の描く物質をも、『光り』をもつて一度は破壊し尽し、再び『光り』として現実のものにまとめあげ形象化してゆくといふやり方である。試みに彼の「少女」を少し注意して見給へ。少女の肉体は全く光りをもつて形づくられてゐるから、――線画上の物質
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