牧野のものでもなければ、色彩家としての牧野のものでもない。つまり線でも色でもない、線でも色でもないものは一体それは何だと誰かゞ反問しさうだ、簡単に言はう、それは『不自然』と称するものである。
牧野には早晩、彼自身に色と線との分離で苦しまなければならない、宿命がきてゐるやうである。その点で己れを知つてゐるものは上野山清貢である。彼はその点では徹底した色彩家である。これまで極端に混濁した、黒つぽい絵を描いてゐた時代の上野山を私は知つてゐる。そしてその反対に全く明るい華美な色彩の時代の彼をも知つてゐる。彼は色彩の上では、明るさと暗さと、美と醜との間を動揺して来たし内心的な葛藤を彼の絵の仕事を通して知ることができる。そして現在の彼の『魚』の境地では、私は最も彼らしい性格的な調和的な仕事ぶりと、観察してゐる。
私は上野山清貢の仕事ぶりに就いて、画家仲間の上野山評といふのを厳密な意味で聞いたことがない。上野山の絵は優れてゐるかといふと否といふ、悪いかといふと否といふ、的確な批評をしないのである。そして話をすぐ彼の芸術ではなく、彼の人物評や、行状の方面へその人は話を転じてしまふ。物足りないしまた馬鹿々々しい。上野山に就いて彼の芸術を語るといふ親切さを画家仲間からきかない。もつとも一人の人物の『芸術』を語るといふことは『苦しい仕事』であるしゴシップを語るといふことは、『愉快なこと』であるから、上野山のゴシップ的面を語つて、上野山の芸術が判つたと気が済んでゐることも良からう。だが私の芸術上の潔癖性はそれをさせない。上野山の作品に対しても、良いか悪いか決めてかゝりたい。
上野山が大臣を描くといふこと、鼠よりも柔和なライオンを描くといふこと、これらの愚劣に属する仕事の攻撃手は多い。だが彼の本質的な仕事『小品』には人々が触れたが分[#「分」に「ママ」の注記]らない。私は特権階級に対して全く非妥協的であつたクルーベと大臣の顔を平然として描く、上野山と比較しようとするのではないが、上野山が大臣の金モールを透して、如何に大臣を人間的肉体的に描かうと努力してもそれは無駄なことゝ思ふ。
彼の画壇的生活には、大臣を描く社会性と、魚を描く芸術性との不一致があり、この二つの矛盾は近来彼の仕事の上で益々開きができてきた。まもなく彼はどつちかに決めざるを得ないだらう。大臣の顔を鰯やヒラメやカナガシラそ
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