ず、物言はぬものに対する横暴なメスのいれ方をして、そこに自然愛を少しも態度としてもつことのできない画家が少くないのである、写意といひ、写実といふことはこの点に関係があらう、人間の表現は自由ではあるが、それが全く自然を絵に仕立てるために、勝手に自然の形を変へていゝといふことにならないのである、変へていゝところと、変へて悪いところとがある筈だ、それを正しく認識するところにその作者の人生観、自然観、倫理観が存在する、私は何故にそのことを強調するかといふに、川村曼舟氏の仕事の性質を強調したいからである、そこで吾人は、非常に単純な気楽な意味でいつたい風景画家は誰か――といふことを考へてみることがいゝ、さう質問されて諸君はちよつと考へざるを得ないであらう、風景を描いてゐる作者はずいぶん多い、しかしかう改まつて真個《ほんと》うの風景画家はといはれた場合にはちよつと卒急には答へられないものがあるだらう、そして漸次幾人かの人々の名は挙げることができよう、しかし真先に、川村曼舟氏の名を挙げても、決して誤りではあるまい、むしろ私は川村氏の名を挙げて、その次に来る人の名をちよつと思ひ出せない。
 風景を描いてゐるからといつて直ちに風景画家とは言へないのである、自然の奴僕化した画家もある、自然の幇間《タイコモチ》化した画家もある、自然に完全にコヅキ廻されてヘトヘトになつてゐる画家もある、その場合の人間は卑しい立場に立つてゐる、それと反対の場合は、自然に妙に反抗的な画家、自然の小股スクヒ、要領よく絵にしてしまふ画家、自然を荒しまはる粗雑な頭をもつた画家、勝手に木を伐つたり、無いところに枝をつけたり、ひんまげたり独断的な野蛮主義者、など、これらは真の風景画家ではない、自然と人間との接触の姿といふものは、まちがひなく画面に証拠だてられる、漫画を描いてゐるやうに自然を描いてゐる風景画家はまことに多いのである、そしてその方が一般的には通りがいゝのである、しかしそれは『通りがいゝ』だけで、我々の精神をそこにとどめてをくやうな印象のふかい絵ではないのである。
 川村曼舟氏の風景画には、人間としての自然への執着のひたむきなものがあり、そこから曼舟氏の作品の道徳的展開がある、曼舟氏は決して自然に敗北しない、さりとて自然を人間的な優位性をもつて、打ち負かしもしてゐない、川村氏の作品は、自然と人間との取つ組み合ひ
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