あらうか、この作品は非常に作者の心理の複雑なものをこの作から感得できるのである。読者はこの「胡馬」の描かれた状態に注意をされて欲しい。殊にこの馬の前脚に何か不思議な感得をすることがないであらうか、私はこんな幻想的な批評をこの場合ゆるして貰ひたい。それは小杉放庵といふ作者は、小杉未醒といふ作者をこの「胡馬」の前脚の処に封じ込んでしまつたのだと考へる、私はそれほどに、この馬の前脚に人間が立つてゐるやうな、擬人的なものを感じられるのである。この作品は、決して張り子の馬のやうな現実遊離の馬ではない。しかし歌舞伎の縫ひぐるみの馬のやうに、確か前脚には、一人の人間が縫ひこまれてあるやうに思へてならない。しかもそれは放庵は未醒をこゝに封じこんだといふ幻術的な異様な感覚をそこからうけとる。馬の頭部は何事かを思索してゐる。それが何であるかはわからない、再びこゝで問題をすゝめて、それでは日本画家としての放庵の人間味はこの「胡馬」的なものに求めたらいゝであらうか、それは全く見当が違ふのである。それは花鳥を極度に美しく描いた作品にそれを求めなければならないのである。その現実離れのした美しさは、その現実離脱の距離の長いほどに、放庵の人間的慾望は果たされてゐるといふことに、観るものは気附かなければならない。放庵は未醒時代から、今に至るも私は理想主義者であると思ふ。芋銭が神仙境を描いたといふことは、さうしたことを好んで描いたといふことはどういふ理由に基づくであらうか。それは芋銭が自己の理想の顕現をそこに果たしたことになり、芋銭の人間味はそこに発見されるのである。放庵の人間味は、あの孔雀或はその他の花鳥類の細微の華麗さの中に彼の神仙境があるのである。石上人や樹下の仙人達に、真の放庵の楽しみは、放庵の理想境は、放庵の神仙境があるのではない。実は大根や人参や、アケビやザクロの転がつてゐるところに仙境があるのであつて、彼の人間味があるのである。彼の絵は華美の極点を衝くほどの人間味が、ぐんぐん出て来る筈である。その点既に仕事の境地は石崎光瑤と似てゐる。光瑤の花は見てその気持が悪くなるほどに美しく描かれてある作品ほどにこの作者の恐るべき人間的境地があるのである。放庵または[#「または」はママ]その境地に入つてゐると思はれ、また是非さう方向づけてすゝむべきであらうといふ結論にも達する。何故なら写実的な現実的な
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