あるとも見え)云々」と言つてゐる。このやうな華楊の作品批評は華楊に対する世間的見方の、最も露骨に出たものとして、特長的である。しかも特長的であると同時に、これ以上、通俗的な常識的な批評はこれまた珍らしい。しかしこの華楊批評には、一応の真実があるのである。一人の批評家が、一人の作家の作品の批評に、直面し立ち向つて、「強ひて言へば」とか「強ひて言はねば」とかいふ、前置つきで批評するといふことが、どういふことであらうか。批評をされる作家の側から言つても変な気がするであらう。何故なら、強ひて言へば作品が悪く、強ひて言はねば作品が気が利いてゐて良い――などといふ批評はどうしても奥歯に物の挾まつた、蛇の生殺しのやうな批評だからである。
 そしてこの「強ひて言へば――」とか「強ひて言はねば――」とかいふ、批評の仕方は、華楊の「猫」の批評だけに止まらない。その方法を当てはめてみれば、すべての華楊の作品に当てはめられるやうである。然し、この「強ひて言ふ、言はぬ――」の批評方法を、他の作家にふり向けてみたとすれば、それでも通用をしないわけではない、しかしさういふ、批評をされた場合人に依つて憤慨する人もずいぶんあらうと思ふ。どうやらこの強ひて言ふ、言はぬの批評は、山口華楊にもつとも適当したもののやうに思はれるのである。某氏のこの評に真実があるといつたのは、さういふ意味なのである。この強ひて批評するといふ、批評家側から言つたところの御招待批評は、ひとつには華楊の人気の顕はれとみていゝ、是非、強ひて悪くも強ひて良くも言はして貰ひたいといふ、人気がこゝにあるとみていゝのである。この言ひ方は黙殺主義でも、また世間的なお座成り主義の批評とはまた違ふ、華楊の「一般的人気」は、強ひて言へば悪く言はれ、強ひて言はねば良く言はれるのである。私はこれに対して「一般的人気」といふところにカッコを附けたことに注意があつてほしい。華楊の一般的人気はこの強ひての両端をもつてゐる。しかし華楊の「本質的人気」は、実はこの二つの両端の間を埋めたところに存在するのである。通俗的人気は強ひての両端で結構なのである。しかし華楊自身の実力発揮の精神的仕事は、かゝる両端の通俗性を認めることはなくて、この両端を軽くあしらひながら、その本質的仕事を押しすゝめてゆくことであらう。
 華楊といへば、一口に動物画家といふ観念がとびこんでくる
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