描いてゐるのである。「奔湍」の中に描かれた雉は、その羽を極点的に拡げてゐる。これ以上羽に力をいれることが不可能だと思はれるほどに、充分な羽の拡がりに描ききつてゐる。もしこれ以上に、この雉が羽に力をいれたなら、その肉体がばら/\に分解飛散してしまふであらうと思はれるほどに、作者の緊張はこの対象物にうちこまれてゐる。「春律」の雉に於いては、その緊張感を、画面全体の韻律に解消してゐるが、「奔湍」では全く、力学的な構成の頂点に達した雉を描いてゐるのである。そしてそこにはさうした技術的計画が、新しい感覚美を、画面にもたらしてゐるのである。「野鶴」に於いても「装飾風のやり方では止むを得ないが――」といふその「止むを得ない」部分は実は作者の意図があると見ていゝだらう。鶴の群の背景をなす部分にこそ、作者光瑤氏の強烈なロマンチストな部分を窺ひ知ることができるのである。春の野花の数々はその美しさを競ひ、星空を地上に引きをろしたやうな極度の美しさが展開されてゐる。そこには装飾的だといはれる何物をも感ずることができない。たゞそれをみる人が、この美しさを現実とみるか、それを一口に「非現実」といひきつてしまふか、それ/″\見方によつて、鶴を認めて、背景を否定し、またその反対の背景にこそ光瑤の精神的な理想境が語られてゐるもので、鶴は単に絵画的形態としての借り物にすぎないといふ論も出てくるのである。人々は光瑤の作品のなかの「非現実」を認めない。しかし非現実の部分に感動してゐながら、それを認めないといつた風な、否定の仕方なのである。そしてもし光瑤が全くの写実主義者になりきつたと仮定したら、その人々は眼もふりむけないだらう。そしていふだらう「昔はもつと美しい色であつたがと」光瑤は勿論、これらの人々のいふことをきいて軽忽に写実主義者になることはあるまい。抽象的方法、象徴的方法は高度の写実的方法であることははつきりしてゐる。その方法が適確である場合には、その形態がどんなに突飛であつても、写実的実感を見る者に与へるし、ねらひがはずれたときは、装飾的な嫌悪を感じさせるのである。「春律」はその意味の後者に属し、私にとつては興味が薄い。「春律」は何等光瑤の画風転換作でもなんでもない。近来の作品は写意が強く、不安感や、焦燥感も全く拭ひ払はれた、静謐なものが多く見受けられる。しかし光瑤の脂肪はまだこのやうにして、脱け
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