れは静かな動作形のなかに最大の熱量を加へるといふやり方なのである。神泉の作品は緩やかさの極致に於て、磨かれ、また情感的なのである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
石崎光瑤論


 石崎光瑤氏の画的経歴くらゐ、複雑微妙なものはまたとあるまい。こゝで注意して欲しいといふのは私は「画壇経歴」とは言つてゐないので「画的経歴」と言つてゐるといふことである。ながい作家の画生活のうちで、画壇的な動き、またその起き伏しの点では、ずゐぶん複雑な画家も多からう、敵もつくるが、また味方もつくる。そして画壇的位置の進退駈引に精魂をうちこみつゝも、画作をつゞけるといふ画家もあらう。さうした経歴者は、その個人の動きが政治的だといふ意味で、「画壇経歴」といま仮に呼んでおく。
 石崎光瑤氏の場合は、さうした経歴とはちがつたものをもつてゐる。石崎氏はその画風が独特であるかのやうに、その心理的な内部生活も、独特なものがあらうと、観察を下して、それが言ひすぎであらうか、さうは思はないのである。石崎氏の画のあの華麗さは、如何なる心理構成によつて出来あがるものであるかといふことを考へてみるとき、美しさは単化された純粋度をもつて見る人をうつが、作者そのものは決して単純ではない。しかも私は石崎氏の作品の形式が作者に与へるところの、厳粛な苦悩といふものを、充分察することができるのであり、また察することが、至当であると考へる。
 この論を書くに際して、自分は石崎氏の作品をすこし計り見てをけばよかつたのであつたかも知れない。それでも批評の的確が不可能とはいへない、ところが、幸か不幸か、石崎氏の過去の作品をかなりに数多く見たり、経歴を調べたりしてしまつたのである。そしてそのために世にも華麗な画家のために、いくぶん陰気な評論を書かざるを得ない立場になつた。しかし私はそのことを喜んでゐるのである。石崎光瑤といふ画家は、決して華美な、派手な画家ではない――といふこと、これはこゝで語る結論なのである。
 石崎氏の過去の作品「熱国妍春」を始めとして、諸製作全体からうける感じは甚だ鈍重なのである。決して明朗でない許りか、圧迫感をもつてゐるのである。曾つて評判作「野鶴」に就いて、色々の人が批評をしてゐるうちに、この作品の真鶴の組み立ての苦心や、「羽色の調子がよく、重なり合つた後ろに親羽根の調子など自然である」
前へ 次へ
全210ページ中78ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング