場合はどうか。彼は土牛、桂華二人展でもよく対照されるやうに桂華の絵はその土牛とはちがつて娑婆気の加はつてゐるところに彼の作品の良さといふより問題点が展開されてゐる。土牛は嫌々だが、桂華はまだ仕事を楽しんでゐるし、ここに試みの多くをその作品に加へてゐる。桂華ほどの画壇的な地歩にあるものが、いまさらむき出しに技法上の試みを加へる必要があらうか、彼はいまでは画学生ではない。しかし、彼の心の中には画学生的な正直な部分がある。こないだの土牛、桂華二人展は、老画生土牛と、画学生桂華とのおそろしくくそ真面目な展覧会なのである。たゞこゝで問題なのは、この二人にはある共通的な通俗性があることである。この通俗的な部分が市価を招く、そしてこの二人のもつとも通俗的でない良心的な部分が市価を引き下ろさない――といふことになつてゐる。通俗的な部分は世俗的な智慧の働き場所であり、非通俗的な部分つまり芸術的な部分は反世俗的な智慧の働き場所である。そこでこの二人の智慧は非常に良く働き世俗的にも、非世俗的にも、完成されたものをもつた作家達である。この二人に特別な人気がある理由は、期してか期せずしてかこの二人がふたつの智慧に恵まれてゐるからである。
土牛や桂華の描くものは、神品といはれて殆んど無条件的に佳さを認められてゐる。この二人の場合の「人気」はその作品の中に含まれてゐる通俗性であり、「神品」なる理由は作品の芸術性にある。そして世間では往々にして土牛にせよ、桂華にせよ、これらの作者の二つの智慧の一面、半面だけを見て感想を述べてゐる場合が多い。絵に理解の浅い一般人は、その作品の通俗性の部分に感じ入り、そして専門家の画家は、その通俗性を発見せずに裏側から、芸術性をのみ認めて、これらの作家の仕事を肯定してゐる。
そしてその何れの批評の仕方も正しくない。土牛や桂華の作品を見る場合には、画面に現はれてゐる、この作家たちの二つの智慧を綜合的に見る必要がある。通俗人をも感心させ、芸術人をも感心させるといふことに就いてもうすこし考へてみる必要がある、それでは土牛や桂華が、自分自身でその「通俗性」を計画し、意図してゐるかどうかといふことになると、私は否と答へたい。この二人が「通俗性」を出すことを、絶えず心の中に計画して、これまで来るといふことは不可能事だからである。またこの二人がさうした意味の通俗人であつたなら、
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