煥発と呼ばれるべきものではないかと、私は考へられるのだ。瞬間的な燃焼力で華美な仕事をのこした人も多い。しかし永い画壇生活の中にあつて、自己の仕事を貫徹するといふ方法の樹てかたをきめながらその制約の中で、仕事を押さへ、押さへ進めてくるといふことも、これまた非常な『人間の力』を必要とする。それは人間といふものの感情といふものは、物理的形容に置き換へてみると甚だ『圧力的』なもので、悟性の容積の中では、とかく爆発したがるものである。それを自己の定めた一定量の容れ物の中にいつも充満させながら、この容れ物の中のものを過不足なくしてをくといふこともこれまた一つの技術なのであらう。
 菊池契月氏は、さうした意味の強い自己制御があると見るべきだらう。しかもこの自己制御は、それを自己に於いてうけとるといふ、人間的謙遜さがある。その意味は一口でいへば『他人に当り散らさない――』といふ態度である。読者諸君は思ひ当るであらうが、画の制作が順調にすすまないと武者苦者腹で、強引に画面を強調して、それで観衆の感情に押しつけてしまふ態の絵は、展覧会になどはなかなか多いのだ。かうした絵を作者が『他人に当り散らした絵』と私は呼んでゐるのである。我々には何の悪いこともないのに、まるで『これでも感心せんのか――』と叱りつけてゐるやうな押しつけがましい絵がまことに多いのである。さう私が説明してくれば菊池契月氏の画が、ただの一度も諸君を叱りつけたやうなのがあつたかどうか、何時も素朴な状態に於いて、眺めさせるといふ絵が多いのではなかつたか。従つてその世評はまた別だ。だから小説家宇野浩二氏が『麦拒』を評して『実によく書けてゐるといふ。といふ以外に言ひやうのない作品である――』と正直に告白させるやうなものである。宇野氏は契月は二十年一日のやうに。『朱唇』『夕至』等の作品に現はれる女たちの顔と殆んど同じ顔をした女が『麦拒』の場合でも麦[#「麦」に「ママ」の注記]をふるつてゐるといつてゐる。
 その宇野氏の批評は当つてゐるにちがひない。契月といふ作家は、二十年も三十年も、さまざまな化け方を知つてゐる一匹の化物を飼つてゐるにちがひない。それは人物の顔はいつも同じでそして着てゐるものが変つてゐるだけといふことは、さういふことになるのではないか、この化け物は『朱唇』では処女らしく手を膝の上に揃へてアドケなく化け、『麦拒』ではモ
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