であつた。そのために観賞者は、絵をみてゐるよりも、湯に入つた気分にさへ捉はれたのである。
湯槽の中の湯の揺曳を線をもつて現はすには、不正な線、つまり歪めた線を有効に配列しなければならないのであるが、湯や水の揺曳、或は湖水の面や河水の面の揺曳といふものは、これまで日本画家はかなりの数色々の形式で取扱つてきてゐるのである。その効果の出し方は、特にその作家が高い意図計画をもつて描かない限り、水の底や、水面をゆらゆらさせるといふやり方は、甚だ通俗的なやり方でさへあり、通俗的な割りに効果を挙げることに成功する方法なのである。
しかし小倉遊亀氏は何といふ賢こい作家であらう。その後の『浴後』に於いては、前の『浴女』と全くちがつた作画態度をみせてゐる。しかし世間は正直なのである。『浴後』は『浴女』との連作であらうといつた簡単な批評で押しつけようとしたのであるが連作故に批評を避けることはあるまい。また少くとも温泉気分の嫌ひな批評家があると仮定すれば、『浴後』の方の人物達は、着物をもう着てしまつてゐるし、作者である遊亀氏自身その作品で、湯船の上気を拭ひ去つた、冷静さで描いてゐるために、むしろ『浴後』の方に多くの問題を保留してゐると言ふ意味合から、『浴後』により好感をもつであらうと思ふ。
小倉女史を賢こいといつた意味は、極端に言へば彼女の技術は『詐術的状態』といつてもいゝほどに隠れたテクニックをもつてゐる画家なのである。こゝに批評家がゐて、小倉氏の草花の描写に非常にこの作家の本質と美をみいだして、それを支持しても既に小倉氏は草花画家として今度の画生活を進めようなどとは思つてはゐないだらう。人物をあれほどに効果的に描き得れば、本人もまたそれにも増して世間も、彼女を人物画家として祭り上げようとするにちがひない。
『浴後』のタイル張りの正確な図式的な配列、それによつて、曾つて『浴女』の湯の中の揺曳で効果をあげたと等しい効果を、そつと誰にも知らさぬやうに効果づけてゐる手腕は末怖ろしいものがある。ただ一言小倉女史に苦言を呈し得ることは芸術的効果は、なるべくその通俗的意図から離れて、それでゐて高い一般性を与へる効果を選ぶべきであるといふ一言だけである。
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菊池契月論
作家的な人気といふものを、確固とした、不動なものとするといふことは、非
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