をもつてゐるのである。氏の作品を明朗主義に批評した人があつたがそれは確かにその感を与へる、然しその明朗主義は、最近の人物画に於いて殊にさうした状態をみせてゐるのであつて、草花、果実の類には、さういつた種類の明朗主義は認められない。そこでは小倉氏の写実家であるといふ全貌を、発見することができるのである。二十一回の院展の『花』二題も好評のやうであつた。しかしその作品を小品扱ひにして、決して女史の本質的技術の点に作品を通じて論ずる者はまた少ないのである。『浴女』や『浴後』は一言でいへば一般観衆にとつて取つ付き易い絵なのである。殊に『浴女』の場合は、批評をする人間が、小倉氏の絵の批評ではなく、あの絵がつくりだす温泉的な雰囲気にひたるのには、全くもつて都合がいゝその批評家は、ゆらゆらと立ち昇る湯気の中で、ほんとうに温泉にでもひたつたやうな気持になることができる。そのことは小倉氏の絵がうまかつたからである。しかし小倉氏の絵がうまいといふことと、批評家がその絵をみて、ほんとうの温泉に入つたやうな気分になるといふことは別なのであらう。批評家は絵の実感に溶けこんでわるいといふのではないが、描かれた湯の絵と、真個《ほんと》うの湯との現実性を区分する力を全く失つてしまふといふことは小倉遊亀ファンとしてはいゝが、批評家としては匂ばしくないことなのである。一番関心をもつことができるのは、小倉氏の絵画上の技術問題なのであらう。この技術の様態を解かなければならないのである。然も小倉氏の技術の状態を解くもつとも本質的な画題のものは、むしろ人物よりも、草花果実にありと見る意見と、草花よりも、人物にありとするといふ意見は一応対立しても構はない。
それでは草花を配した人物、さうした氏の作品は完璧であるかどうか、しかし草花と人物との技術的一致といふものはまだ現はれてゐないやうだ。立派に草花を描くテクニックをもちながら、それを人物に添へてはゐないのである。
由来画壇にせよ、他の芸術壇にせよ。ジャアナリズムに乗ずるといふことに就いては、単純な理由でこれを見ることはできない。
小倉遊亀氏が『浴女』を描いて発表したことに就いて、何か世間では得たりかしこしとそれを名作として賞讃したやうな傾きもある。作家の敏感がそれを招くやうにつとめて得られたのか、或はさうした計画が全くないのに世間で突然騒ぎ出したのか、その間
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