た作品を描かなかつたのであらうか、否、決してさうではない。それは氏の仕事のすべての状態が、氏の作品を理解する条件に恵まれてゐなかつただけのことである。
 この辺で筆者が小倉遊亀論をやるといふことは、甚だもつて興味の深い時期にぶつかつたといふことができよう。しかも現在小倉論をやるといふことは非常に困難な状態に際会してゐる。それは頭で[#「で」に「ママ」の注記]なしに批評したり、賞めてをくことに間違なくていふ批評をするのであつたら、さうした困難さが伴はないのである。さうした場合ではなく、小倉氏の現在を一つの転換期としてみるといふ場合には、勢ひその批評もデリケートにならざるを得ないではないか――、小倉遊亀氏が何故に評判の作家であるかといふことに就いては、各人各様の見方があるであらう、しかしその各種の批評を貫ぬいて、小倉氏自身の実力的なものが如何なるものであるかといふ吟味は案外に行はれてゐない。
 しかし最近に於いては、これまで女なるが故にも甘やかされてゐなかつた小倉氏が、こゝへ来て、女なるが故に――甘やかされるといふ現象がボツボツと見えてきたといふことは、注目すべき珍現象であらう。『遊亀氏の作品には何ともいへない品のよいデリカシーがある。そしてそれは到底男の作家では及び得ないやうなものだ――』といつた批評も見えてゐる。小倉氏の作品には全くデリカシーがありそれが気品を伴つてゐる。しかしこの批評家のやうに、男の作家では及び得ないやうなものだ――などといふ批評は、矢張り『女なるが故に――』甘やかされた批評の一種と見るべきであらう。芸術的な創作物は、あくまでその評価を具体的な状態で解明していかなければならないものであつて、男であるからとか、女であるからとかいふ『性別』の問題を表面にとりあげるといふ法はないのである。女性作家にとつては、その種の女なるが故にといふ批評の内容的なものを想ひ、抗議的であつていゝ位である。また批評家としても、男の作家では出来ないやうな仕事を小倉女史が為し遂げたといふ批評の仕方は、女の作家を軽蔑したことにも、男の作家を卑屈にみたことにもなるのである。芸術作品に対するお世辞の使ひ方も、性別を加へたお世辞であれば、鼻もちのならない卑しいものに堕することも少くないであらう。
 小倉遊亀氏の人気の基本的な線は、決して最近の現象ばかりをもつてそれを論じられない。しかも
前へ 次へ
全210ページ中56ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング