から抽き出された何等かの形式なのである。大智氏の作品には表面的には何等その激しさは認められず、温和そのものの表現ではあるが、追求の方法の激しいこと、一例を挙げれば、大智勝観氏は直線と曲線との相剋に永い間悩んできた人である。したがつてその両者の独立、溶合、更に直線でも曲線でもない或る物、さうしたものの発見の方法は、かなりに激しいやり方をしてゐるのである。
 第十六回美術院試作展に大智氏の出品した『春秋』といふ作に、或る批評家は『春秋』の松が余りに弱々しい、優美と云へばさうも思へるが力が欲しい――と評してゐたが、この種の批評はこれまで大智氏はずゐぶんされてきた。作者の立場からすればこれらの批評は全く作者とは見当外れの立場に立つものであらう。何故なら私の見るところで、その松の木の弱々しさ、優美さこそ、この作家のねらひどころであらうと思はれるからである。作者が計画企図するところが画面にうまく表現されると、批評家がその点が悪いとか、不満だとかいふ。それほど奇怪なことはない。我国の美術批評界には実にさうした批評が多い。一言でいへば、さうしたことを指して『無理解』といふのである。しかも大智氏の松の描方は単純な弱さではないのである。殊に大智氏の線の種類のうちで『縱直線』は一種特別な解釈が加へられてゐて、この松のやうに、上にのびた直線を使つた対象物は、微細な震動的な直線としての持味がある。『力が欲しい』といつた大智氏に対する注文こそ滑稽である。大智氏は南画のことをかう語つてゐる『南画といふのは柔らかい自然主義です』と、この言葉こそ正確な南画理論と一致する言葉であらう。問題点は『柔らかい』といふことにある。何という柔らかくない硬化した南画形式の自然主義的な作品が、世上に多いことであらう。
 大智氏は稀に見る柔らかい作家なのである。だから一部の人々にとつては、その柔軟さが何か作品の欠点であるかのやうに見させてゐる。そしてもつと『力が欲しい』といふ。我国の日本画壇では『迫力』をもつて、芸術的な力量だといふ風に思ひ違ひをしてゐる。近頃どうやら、龍を描く作家が少くなつた許りの日本画壇では、それでも手を替へ、品を替へて、仁王さまとか、鷹とか、精々出来が悪くても構へがいゝといふだけで、得をするモデルを選んで描かうとする気分がまだ絶えてゐない。雛鳥を描くよりは、二羽の鶏に喧嘩をさせて『闘鶏』とでも題
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