、ところで乙記者はオーバーの内ぽけつとから一枚の皿と小さな壺とをとりだしてそれを卓上にのせた皿は紫がゝり、壺は朱の色と驚ろくほど美しいものであつた、
乙記者は語りだした、彼は戦地で兵士の一群と行動を共にした、兵士は支那××の博物館に突入して行つた、そして銃の尻で陳列品のケースを叩きこはして廻つた。
この混乱の最中に、彼はそのケースの中から二つの品をとりだしてポケットに入れた、それからそれを背中に背負ふやうにして、長い/\時間このこはれものを大切にしてきた、帰途朝鮮の博物館に寄つて、自分のもつてきた品と同じやうな品が列べられてゐたので自分の品の時代考証をした、その品はをそろしく古く、貴重な品であつた、
こゝまで語つてきて、彼はところでその時価は壺が一万二千円、皿が八千円のもので、いまにもすぐに金になるのだと説明した、
人々はあつと驚ろいた、そしてその壺とその傍の血のにじんだ青龍刀とを見くらべてゐた、ブキヨーな乙記者は突然とびあがるやうにして机の上の壺と皿とを鷲掴みにしてそれをオーバの下に押しかくした、それは怖らくさつかくであつたかもしれない、或は事実として現はれるのであつたかも知れない、甲記者がいまにも青龍刀を手にして自分の大切にこゝまでもつてきた皿と壺を粉みじんに叩きこはしさうな幻想にとらはれたからだ、――そして乙記者はいつた、『ところで僕は今日限り社を廃めさしてもらひます』
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押しやられる流浪人の話
満洲に冬が来た、流浪の満洲人は奥地から都市に辿りついた、彼は夏の間兵士であつたのか、空腹と饑餓が襲つて、彼は極度に衰弱してゐたために歩行困難の状態であつた、
彼が一都市についたときは今にも倒れさうであつた、一軒の家の前に立つた、その家は骨とう店であつた、彼はじつと店内をながめてゐた、心は空腹のために虚ろになつてゐた、すると中から店主が現はれて、叱、叱、と叫んだ、
流浪人はこの叱り声の意味を理解したかのやうに柔順にその店の前を立去つて、その家の次の商館の店に立つた、彼は食を求めてゐるのではなかつた、既に食を求める力もなく、いま一椀の飯を与へられても彼は喰べる気力はないだらう、彼は立つてゐる力を次第に失ひ始めたために、じつと肉体の動揺を避けるために、立つてゐるだけであつた、
だが、その家からまたもや主人が出てきた、そして手でその男を静かに押して自分の家と隣家との境目まで、さうした状態で流浪人を押しやつた。
流浪人はしづかに歩るいてゐたが、いまにもぶつ倒れさうになつた、商館の主人は、男を隣家まで押してゆくとさつさと家に帰つた、
流浪人はまたもや次の家の前にじつと突立つてゐた、その家役所勤めの人の住んだ家であつた、その家の主人が出て来て、前と同じやうに、男を押して少しでも早く自分の家の前をこの不幸な男を去るやうに邪剣に扱つた。
男は三軒目の家を去つたところが、その街の殆んどはづれであつた、男はその場に突然膝をついたそこは幾分窪みになつて、寒い風を避けるかのやうであつた、彼はその場に倒れ、眼をつぶつた、すると一人の男がその場を通りすぎた、この男もなにやら虚洞な眼をして、じつとこの行き倒れを見てゐたが、のろくさとした動作で流浪人の体に手をかけ、その体から衣服をはぎだして、見るとその男は殆んど上着は破れてゐて、彼は流浪人から着衣をはぎとるとそれを歩きながら着た、流浪人は裸体のまゝ、寒い雪の上に倒されてゐて、彼は少しも体を動かさない、でも眼は案外生々として、まだ生きてゐることを証明した、男は去つた、そして流浪人はそこで死んだ、冬の間この死体の上には雪がつもることをしたが、強い風はすぐ積つた雪をふりはらつて、カチカチとした裸体をむき出しにしてゐた、通行人は稀にそこを通つた、然しその死体をチラと見たきり少しも心に動揺を起さなかつた、野犬がその死体に近よつた、しかし鉄よりも硬ばつた死体を鼻でさはつたきり、絶望的に去つた、
そして春がまた死体の硬ばつた凍へがしだいにとけてきた、死からほぐれてゆく生命といふものがあるとすれば、冬の間凍つた肉体が春になつて漸次溶けて行き、彼の霊のない肉体が新しいフショク物として地面の中にしだいに溶け沁み行つてゆくその過程のやうでもあつた。
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無題
一人の上京学生がゐた彼はA炭礦所有主の息子であつたA炭礦では炭礦夫達の生活の合理化のために共同炊事や、共同購買組合風のものを設けてゐると、二人の左翼学生にむかつて自分の父親の政策の自由主義的なことを誇りながら語つた。
左翼学生は質ねた、そこで礦夫達の娯楽設備の方はどうなつてゐるね、すると彼は答へた、娯楽は当礦には設備されてゐない、そこから約二里出たところのB街にはあらゆる娯楽機関があるので、そこへ終業後出かけてゆくといふ、そこで左翼学生はではその間の路はバスででも行くのかね、といふすると答へて、バスではない××電鉄(新設された)の電車が八分をきに通つてゐる、××電鉄では炭礦夫達の娯楽と、B街の繁栄のためその電車賃を殆んど実費にしてゐる、そこで左翼学生は、然し、その電車の利用者は多いかどうかと質ねる、
炭礦所有者の息子は答へて、電車賃は実費にして電車も利用され易いやうに、一ヶ月分のB街行の電車賃××を月給から天引にしてあるといふそこで左翼学生は唖然として、そのやり方は美事だといふ、僕等のいふ娯楽といふのは(文化性)を加味されたもの以外にない、炭礦夫が労働強化の慰安費をまきちらすために設備された、B街の淫売窟や、呑屋や、いつまできいても頭のよくならない浪花節小屋へ彼等の足を運ばすために、××電鉄は電車賃を実費にしてあるのはその政策の腹黒さだ、もし一ヶ月分の電車賃を天引きされた礦夫がそれを完全に使はず山に引こもつてゐたら、この乗らない電車に支払ふ金は丸もうけぢやないか、然も淫売屋へ落ちる金は炭礦主の懐へまた逆戻りだと左翼学生らしい率直さで炭礦主の息子を反駁する、すると炭礦主の息子急に立ちあがつて、そんな議論はよさうとジャズをかけ、そして一同にダンスを誘つて、その話はウヤムラにされてしまふ。
底本:「新版・小熊秀雄全集第一巻」創樹社
1990(平成2)年11月15日新版第1刷発行
入力:八巻美恵
校正:浜野 智
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
2006年3月1日作成
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