ことぢや、わたしも梅毒患者よ、だからお似合ね』
 女は少しも男の言葉に不安を感じないと言つた笑ひを含んだ蓮つ葉なものゝ言ひ方をしながら、せつせと歩きつゞけた。
 男は目算ががらりとはづれたので意外に思つた。男にしてみれば対手の女に、別れ際に梅毒の暗示を投げかけて、兎のやうに横路にそれて女と別れて了はふといふ計画であつたのが、案外な女のゆつたりとした態度に、かへつて逆捻《さかねぢ》を食つたやうな、抜きさしのならない破目に陥つてしまつたので、こんどはなにかしら女に引ずられてゐるやうな気持で女の足音のとほりに歩かなければならなくなつた。

    (九)

『さよなら』
 先にたつて歩いてゐた娘さんはふり返つて不意にかう優しく言ひくらがりの中にめがけて、とんとんと二三歩前にのめつた。
 その時男は歩くことも、また凝つとして立ちどまつてゐることもしやべることも、なにもかも苦痛になつてしまつてゐたので、陰気にうつむいて歩いてゐたのが、娘さんの『さよなら』の言葉をきいて、ぎくりと水を浴びたやうに飛びあがつた。
 しかし今更娘さんを引止めたりすることも、つまらないことであるし、それに室の窓からさつき
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