私に接近しながらいふのです、
『お差支へがなかつたら、お茶でも、つきあつて下さいません?』
 男といふものは、女との交際の機会をいつもねらつてばかりゐるものではないのです、さればといつて機会を決してのがすものでもないのです、私も即座に
『構ひませんよ、―』
 と答へてしまつたのです、腹の中では早く家に帰つて汽車の疲れを治したかつたのです、三ヶ月の地方旅行で、すつかり地方人らしい気持になつてゐたのです、私はそのとき都会人には、お茶をのみ、音楽をきいて、疲労を治す方法のあることを、ふつと思ひだしました。家に帰つて寝てしまふのも休息ではあるが、お茶でものんで、久しぶりに都会の娘としやべるのも休息だと考へたのです。
 彼女とS街の街燈の灯の下を歩るきました、
 見れば見るほど彼女は変化してゐるのです、例へば悪魔が神に変つたやうにです、以前の彼女は『悪い奴』でした、私は男だから男の立場に立つて身びいきにさういひたいのです。
 なぜなら彼女の濃い口紅をひいた唇は、飯のかはりに男を常食してゐるかのやうに毒々しかつたからです、しかし今の彼女は何事に対しても神のやうに静かに祈つてゐるやうです。
 或る洋菓子店で、二三度口をきいた程度の私にむかつて祈るやうな何かしら哀願的な態度をみせてゐるのです
『以前とわたし感じが変つてゐませんの』
『大いに変つてゐますね、何かしらぼんやりとしたやうな様子ですね―』
 と私は答へました、ほんとうは『気の抜けたやうな感じ』とその時言ひたかつたが、さうは、言へなかつたのです。
 以前の彼女は炭酸の利いた清涼飲料水のやうに、肉体も心も、沸騰してゐました、声はかん高く天井に跳ねかへり、足はちつともじつとしてゐませんでした、それがいまはすつかり気のぬけたサイダーのやうに、ぼんやりとだらしのない甘味だけがのこつたやうな姿でした。
『以前のわたしは人生のことなんか何にもわからなかつたんですのよ、―』
 と彼女はおかしい程、過去に対しては回顧的になつてゐるのです、
 一軒の喫茶店に彼女と入りました、私は特に何事も話しをする興味もないので、だまつてゐました。
 それでも済むまいと思つたので、彼女の兄がいまどうしてゐるかと質ねました。彼女は兄は旅行にでゝ東京にゐないと答へて、何やら兄の行先や、兄の事情にふれることが喜ばない風でした。
 私は彼女のその兄であるといふ男と、洋菓子店で偶然に知り合つたのです、或る日私は若い友人とその店のテーブルを囲んで、熱心に話しこんでゐました、話が『自然科学』にふれたとき、一隅から私に声をかけた男があつたのです。
『失礼ですが、貴方のいまのお話しは間違つてはをりませんでせうか―』
 とその男は話しかけるのです、見ると全く見も知らぬ年頃三十歳位の、小綺麗な服装をした、嫌味のない好青年でした。
 ぴつちりと身についた洋服を着て、髪は髪油で光り、勤め人風に刈りこまれ、鼻の下には官吏らしい短かい髭と、薄い唇とがありました、彼は落着いた声で私に話しかけるのです、彼が表面の落着きに反して、興奮してゐることは、彼の手にもつた細味のステッキがぶるぶると小刻みにふるへてゐるのでわかりました。
 青年の傍には、背の高い服装も化粧も万[#「万」に「ママ」の注記]艦飾の若い女が坐つてゐました、青年と女とは顔型の上からも性格の上でも全く似たところがなかつたので、この二人が兄妹だとはそのとき思はなかつたのです。
 私は見も知らない男から、突然非常に論争的な態度で話し掛けられたことは、決して良い気持ではありませんでした、しかし私は『これは面白い―』と好戦的なものが、ムラムラとわいてきました。
『ひとつ気のすむまで、何処の馬の骨ともわからぬこの男と議論をしてやれ―』
 と思ひましたので
『私が何か間違つてゐるやうな、貴方のお話しですが、それはどういふ理由からでせうか―』
 すると彼はつとめて冷静にしやべらうとして、嫌らしい程の特別に丁寧な言葉を選んで、話しかけてくるのでした。
『ははあ、あいつは英国流の紳士だな―』
 と直感しました、そこで私も英国流の紳士か、十九世紀のロシヤの貴族のやうな、胸糞の悪くなるやうな形式的な、くすぐつたいほどの言葉を選んで話しかけてやれと思つたのです、たとへば
『君、明日僕の処に遊びに来給へよ―』
 と率直に言つてのけるところを
『ちよつとお伺ひいたしますが、あなたの御都合がおよろしかつたら、お差支へがございませんでしたら、私の宅までお越し下さいませんでせうか、もしおいで下さるやうでしたら私の一家にとりまして、これ以上の光栄はございません―』
 といふ風な、極度に引きのばした言ひ方で、この見も知らぬ議論好きの男をからかつてやれと、ある残酷な気持になつたのです、
『貴方といふ方は、私はすこしも存じませんので
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