子をとらずに、ただそれに軽く指をかけただけで、挨拶をしたことになるといふ習慣にかはりました、しかしお低頭好きの連中は反対しました、ことに老人たちははつきりと口に出して
「いまの若い連中は、おじぎをすることを忘れてしまつて、まことに嘆かはしい時代になつたものだ――」
「ことに怪しからんのは、神社やお寺の前に行つても帽子をぬがんことぢや――」
 と言ひました。
 女達が男と同じやうに、帽子をかぶり始めてからは、一層非難が起きました、女たちは今ではお低頭をしないばかりか、頭に帽子をくくりつけて、風にふき飛ばされないやうな仕組みにつくりかへました。かぶつたまゝで、なにもかにもすましてしまふやうになつたのです。
 お低頭をすることが少くなつたので、バッタの国の政府では、それを非常に気にしはじめ、殊に老[#「老」に「ママ」の注記]寄りのお役人たちは、「帽子に関する法令」を新しくつくらうと言ひだしました。
 小学生、女学生、中学生、大学生や、一般国民に、新しい時代の正しいお低頭の仕方を、法律できめようといふのでした、学生や一般の市民がどんな風に帽子をぬいだり、かぶつたりするかを調べるために、帽子調査委員会といふのがつくられました。
 女学生たちにも帽子をぬいでお低頭をしなければいけない――といふきつい法令を言ひ渡したのです、お役人たちは古い法律はそのまゝにしておいても、いつも新しい法律をつくりだして、つぎつぎと世の中に示さなければ、なんだか不安でたまらなかつたのでした。
 それに法律でもつくつて、何かしら自分の机の上の書類を、ガサガサと引つかきまはしてゐなければ、死ぬほど退屈でならなかつたのでした。お役人たちは帽子調査委員会の仕事でその退屈を救はれました。
 しかしそのうちお役人たちは、何となく自分自身の帽子のことが気になり始め、そつと自分のかぶつてゐる帽子に手をふれてみました、帽子はたしかに彼の頭の上にのつてゐたのです、そこで安心をして、机の前の腰掛に腰をおろしました。
「あゝ疲れた、こないだから帽子の法律のことで、わしの頭の中はいつぱいであつたよ」
 彼はほんとうに帽子のことで、頭の中がいつぱいであつたことが、苦しくてならなかつたかのやうに軽く頭を左右にふりました。
「あゝ帽子、国民の帽子、そして我々官吏の帽子だ、帽子、帽子だ、国民と帽子の関係は、こんどの法律で完全に結ばれたわい――」
 そのとき電気にうたれたやうに頭の芯がしびれたやうに感じました、お役人はそつと頭に手をやつて帽子をぬいで、机の傍にそれをおきました、すると帽子のことでそれまで頭の中がいつぱいであつたのが、こんどは頭自身のことが急に気にかゝりました、そこでお役人は、事務机の上にのつてゐた、鉄製の分鎮をとりあげて、それで頭をたたいてみました、するとどうしたことでせう、いつのまにかお役人の頭は無くなつてゐて分鎮はいたづらに空をうちました。
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娘の人事相談


 北海道、鎌倉、逗子、といふ順序で旅行に出かけて、私は三ヶ月ほど東京を留守にしてゐました、東京に帰つてきた私の眼に、久しぶりの東京は、華美で享楽的なものに映じました、
 省線S駅で下車した私は、ほつと吐息をし、手にした小型旅行鞄を持ちかへたとき背後から名を呼ぶ女の声がしました、其処に背の高い女が立つてゐて、私はすぐには彼女を思ひ出せず、眼をぱちぱちやつてゐました。
 遠い記憶が、引き出されたやうに
『あゝ、お医者の妹だ――』
 と呟やいたのです。
 三ヶ月間に、何といふ彼女の変り方の激しさでせう、私の知つてゐた彼女は、眼の前に立つてゐる彼女とはちがつてゐたのです、何といふメイキャップの方法かしりません、生れつきの眉を、毛抜きでぬきとり、その上に人工的に眉墨を引くやり方です、女優デイトリッヒ型とでもいふべきでせう、眉の先端が消えるやうに細く、その眉も引き方では優しく見えねばならないのに、事実は反対でした、眉と鼻との関係はちやうど英字のYのやうで、優しいどころか、『悪どさ極まれり―』といつた眉の引き方であつたのです。
 以前に知つてゐた彼女も、またさうした種類の眉を引く女で、靴下も蛇の鱗のやうな光沢のあるものをはき、洋服の柄も、原色的な、大きな格子縞でした、いま私の前に立つてゐる彼女は、全く変つてしまつて、純日本的な和服姿なのです、脂肪質な女から、脂つ気をぬいた感じを受けました。
 彼女の年齢はいつか彼女自身から、聞いてゐたので確か二十五歳です、彼女の名前はそれを聞く機会がなく、必要もなかつたので、知らず彼女を『お医者の妹』と呼んでゐたのでした。
『しばらくで御座いましたわね、旅行にいらしてゐたのですの―』
 と彼女はいひました、私はうなづきました。
 彼女は顔中愛嬌をたたへ、
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