イヤ、お前も新聞も満足にない田舎にゐたので、さぞ新聞を読みたいでせうが、新聞は御主人の学問のことでとつてゐるのです、だから、わたしも遠慮して、なるべく読まないやうにしてゐるほどなのですよ――』
 といふのであつた。丁度その時、博士は外出から帰つてきた、夫人はそれをしほに、女中に向つて、話を一層大袈裟にもつてゆかうとした、
『ねい、貴方、いまもネイヤに新聞のことを話してゐたのですが――』
 博士は、夫人には答へずに、いかにも苦々しい表情をして、でも鷹揚らしく、
『うむ、新聞のことか、いや大した問題ぢやないさ――』
 とうそぶくのであつた。
 その時、女中はいかにも言い難さうに体の向きを博士の方にかへながら、おづおづとしやべるのであつた。
『旦那さま、ではわたしの見る新聞を、別にとつていただきたうございます、お代はお給料の中から、引いていただきまして――』
 博士の顔色はみるみる変りだした。『何といふことだ、わしより先に読むなといふと、今度は自分で購読するといふ、――然も女中はたしか月五円やつてゐる筈だ、そのうちから払ふとは、いや大胆な話だ――』とこゝろに呟やいた。夫人は
『お前が別に新聞をとるの、まあ、それも悪くはないわね、でもそれでは角が立つといふことになるわ、お前も東京に出てきてみれば、いろいろ学問もしたいでせう、しかしねネイヤ、学問といふものは、べつに新聞からばかりとはかぎりませんよ、利巧になるといふことは、何も新聞を読まなくてもなれることですよ、御覧なさい、うちの犬のプーリを、教へもしなくても、両脚を使つて、上手に玄関や、勝手の戸をあけるぢやありませんか――』
 その言葉に今度は女中が、自分と犬と比較されたことで、何か胸のあたりがムカムカとして、気が済まなくなつて、嘔吐気さへもよほしてきた。
『でも奥様、プーリはほんとうに困ります、お台所の戸をあけましても、ただの一度だつて閉めたことは御座いませんの、そのおかげで空巣にわたしの下駄を盗まれました』
 女中は俄然、勇[#「勇」に「ママ」の注記]弁になつてゆくのであつた、でも彼女の眼頭がしだいに熱くなるのであつた、彼女が顔をあげたとき、彼女はメソメソと泣いてゐた。
『ええ、奥様、旦那さま、(かういつて呼吸をのみこんでから)わたしはプーリより馬鹿でございます――』かういつて、主人夫婦に何か飛びかゝるやうな格好をした。
『ぢや、旦那さま、なぜプーリは、なぜ犬は新聞を読まないので御座いますか――』
 犬は読まない、しかし自分は読めるといふ立場を強調しようとして、こんな珍妙な問を発したのであつた。
 博士はぐつと詰つた、そして額に眉をけはしくよせた。
『何、犬が新聞を――、わしはまだ、それは研究しとらなかつたよ、アハハハ』
 博士は哄笑した、夫人も博士に声を合せて笑ふのであつた、最初、新聞のことは大した問題ではないと空うそぶいた博士は、いまはこの犬が何故新聞を読まないのかと、愚問を発して主人に反抗する女中を追ひ払はなければ気がすまなくなつた。
 女中は帰国した、夫人が毎朝新聞を博士の枕元まで運んできたから、新聞に就いては何事も起らなかつた筈であつた、こゝに不思議なことが起つた、といふのは、博士はたつたいま夫人の運んできた新聞の折つたまゝのものを寝床に仰向いて眺めてゐた、すると新聞の折が崩れてゐるのだ、そんな日が幾日もつづきだした、何者か、毎朝自分の見るのに先だつて新聞を開いてみるのだらう、悪魔のやうな女中の奴はゐないのだ、するとあいつに変つて新しい悪魔が忍びこんだのか、――博士は或る朝、またも折目の崩れた新聞を夫人から受けとつた、寝床に仰向いたまゝ、博士は何か秘密を探るやうに、新聞を開いた、とたんに怖ろしく大きなクシャミがつづけさまに出て、同時にまるで槍をもつて不意に突かれたやうな痛みを、両眼にかんじ、半こはれの機関銃を発射したやうに、クシャミは続けさまに出て、博士は両眼の痛みをしつかりと両手で押へ、クシャミをしながら、部屋中を狂ひまはるやうに駈けあるいた、夫人が襖をひらいて驚ろいて其場にやつてきた、夫人は博士を抱へるやうにして台所に連れてきて、水道の水で眼を洗滌し、ハンケチで幾度も鼻をかんでやることで、眼と鼻の苦痛は漸くにして去つた。
 博士の不機嫌な顔を見ると、その顔は夫人が結婚以来始めてみかけるやうな異状な不機嫌な顔をしてゐた、博士は無言のまゝで再び自分の寝床に引帰して行つたが、寝具の傍に投げとばされてある新聞を、怖ろしいもののやうに、再びそつと開いてみてゐたが、その時博士の表情は異常な驚ろきで痙攣し、殆んど口がきけないものの興奮にとらはれたのであつた。
『あゝ、プーリが、プーリが――』
 博士はかう叫ぶと新聞を鷲掴みにして夫人の部屋にやつてきた、博士は再度『あゝ、プーリが、プ
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