のであつた。
――わたしも、今朝なにか騒がしいと思ひましたよ。
――思ひついたら起きて見たらよかつたぢやないか。
青丸はしきりに、小さな手で食卓の上にはい上がらうと努力してゐたが急にむせびだして顔を火のやうに赤くしだし、喰べてゐた飯をテーブルいつぱいに噴きだし激しく続けさまに咳をしだした。
いかにもその咳が苦しさうであつた。妻は慌てゝ強く青丸の背を平手で打つた。青丸は眼を赤く充血さして、ゼイ/″\と壊れた笛のやうに、のどをいはしながら、鶏のやうにのどをながく伸していつまでも咳をし続けた。
――貴郎《あなた》、青ちやんは、百日咳に取りつかれたんぢやなくつて。どうもさうらしいわ。
妻は心配さうに青丸の様子を窺ひながら私にかう問ふのであつた。
――そんなことはお医者ぢやないから知るもんか。
私はかう邪険に突離してをいて泥鰌の蒲焼のひとつを口にほうりこんだ。妙に乾燥した風味と、そして泥鰌の背の軽い骨とを歯に感じた。しかしその香気は風に散つてしまつたかのやうに何の味もないものとなつてゐた。
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雨中記
電車を降りて××橋から、雨の中を私と彼とは銀座の方面に向つて歩るきだした、私と彼とは一本の洋傘の中にぴつたりと身を寄せて、黒い太い洋傘の柄を二つの掌で握り合つてゐる。
男同志[#「志」に「ママ」の注記]の相合傘といふものは、女とのそれよりも涯かにもつと親密な感じがするものである、殊に私は彼とこんな機会でなければ、おたがひにかう激しく肩を打ちつけ合ふことはあるまいと考へた。
彼の肩は大きい、私の肩は瘠せて細い、彼の肩幅の広くて岩畳[#「畳」に「ママ」の注記]な傍に添つてゐるだけでも何かしら安心ができる気がする、また彼の額は深く禿げあがつて赤味を帯びて光つてゐる、彼がのしのし[#「のしのし」に傍点]と歩るいてゐるのに、私は気忙しい足取りで、それに調和しようと努力する、彼の醜怪なほど逞しい赤い額は、暗い雨雲も押しのけてしまひさうな頑健さだ。
二人は雨の日に銀座の散歩に来たといふことを少しも後悔はして居ない。
「濡れるぞ、もつとこつちへ寄り給へ、情味は薄暮れの銀盤をゆくごとしだね」
私はかう言つて彼の方に余計に洋傘をさしかけながら、雨の路面を見た。
路面には少しの塵芥もなかつた、連日の降雨に奇麗に洗ひ流された
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