砂糖をかけたのを、一日に七ツも八ツも貪り喰ひ無性にうれしがつてゐた。
 俺は幸にも手籠を提てパリーの公設市場まで、買ひだしに行かなくてもよくて済んだのであつた。
 それから間もなく欺されてゐることを知つた。
 肺病などゝいふ上品な、はいからな病気でもなんでもなかつた。彼女は妊娠をしてゐたのであつた。
 精一杯な我儘を始めた。
 殴りつけようとすると、女は素早く拳骨の下に、腹を突きだした、かうすると俺が殴れないことを、ちやんと知つてゐた。
 当時俺たちは極度の貧乏をしてゐたのだが、彼女は不経済にも喰べた物を片つ端しから盛んに吐きだした、そして吐き気が二ヶ月もつゞいたのであつた。
 ――殴るなら殴つてご覧、吐くものがなんにも無いんだから、血を吐いて見せますから。
 事実血を吐かうとおもへば、吐けるらしかつた。
 女の感情は、毎日猫の瞳のやうに変つた。
 女などゝいふものは理由なしによく泣くものではあるが、この数ヶ月間は殊に理由なしに泣つゞけた。
 この妊娠の期間、俺は彼女に馬車馬のやうに虐使された。
 胎児と彼女の臍とは、長い管のやうなものでつながつてゐて、高いところに、彼女が手を挙げるやうなことがあると、ばちんと音がして、臍の緒が切断され、腹の中の赤ん坊は死んでしまふと、彼女は脅かしたのであつた。
 俺は仕かたなく棚から摺鉢や片口などの重いものを、をろしてやつたり、漬物石をとつてやつたりしなければならなかつた。
 重い物は男たちが持つてやらなければならないなどといふ家憲のある家庭もあるさうだが、俺はそんなことはきらひだ、殊に幸なことには彼女は俺より大力であつたから。
 しかし妊娠してから女は急に力が抜けてしまつたのだ。

    (四)

 腹の中の子供に、聖書を読んできかしたり、ベートーベンの交響楽を弾いてやつたりする、馬鹿気た教育法がある。
 これを胎教とかいふさうだ。
 神様の存在をも信じられないやうな俺が、どうしてこんな電信柱に説教をする様な愚にもつかない実験を信じることができ様か。
 それまではてんで鼻汁《はな》もひつかけなかつた、この教育法を、その頃から妙に真理の様にも考へさせられだした。
 ――ずいぶん、お飯《まんま》を喰ふぢやないか、
 彼女は楽隊にはやし立てられてゐるかの様に、調子に乗つて何杯も何杯も、お替りをして喰べた。
 ――でも赤ん坊と二人分喰
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