はいけない事、果樹園の主人が伝へてよいと許したこと以外にはしやべれない事になつてゐた、彼は自分のことは唖のやうに黙つてゐなければならなかつた。
或る時、大|海嘯《つなみ》が突然やつてきた、果樹園の人々は狼狽して果樹園の背後の山へ避難したが、望楼の男だけは、最後まで望楼に踏み止まつてお喋しつづけた。
『みなさん、御安心下さい、只今水は二米減りました、××方面では三米、××方面では四米減りました、××さんの李の木が五本倒れました、被害は思つたより僅少であります、間もなく水が引くと思ひます』
『御避難の方へ申しあげます、××方面はもう大丈夫ですから随意お帰り下さい―』
間もなく洪水は収まり、人々は果樹園に帰つてきた、人々はこのお喋り男の、英雄的な勇敢な行為と、果樹園への奉仕ぶりに感動して、勇士だと褒めた。
ところが人々はこのお喋り男の真個《ほんと》うのことを知らなかつたのであつた、この男は勇士どころか一番の臆病者で、最初果樹園に水が襲つてきたとき、男は真先に望楼を駈け下りて、逃げださうとした、そこへ果樹園の主人がやつてきてこの臆病者を、望楼の柱に繩でしばりつけてから、主人は手にした鞭でぴしぴしと男の尻を引つぱたき、強制的に果樹園の安全なことをお喋りさせたのであつた。
水が引いてから主人はお喋り男の尻を撫でてやつて『いや御苦労々々』といつて褒美の金一封を渡した上、新聞に勇士らしくかきたてさせたのであつた。
果樹園の人々は後で事情を知つてから、この望楼男のお喋りすることを少しも信じなくなつた、なぜといふに男の傍にはいつも果樹園の主人がついてゐて、鞭で尻をうつて、果樹園の都合の良いことだけをお喋りさせてゐるといふことが判つたからであつた。
百歳老人の話
ある村に、何時の頃から生きてゐるのか判らないほど歳をとつた老人が住んでゐた。
村の人々は、この老人を『百歳老人』と呼んでゐた、村随一の物識りで、村に何か面倒な事が起きると、村の人々はこの老人の住んでゐる村端れの家まで『如何したものでございませうか―』ときゝに行つた。
ごたごたがどうしてもまとまらない時は、村長が老人を迎へに行つた、老人は長い竹の杖をついて出て来た。
この竹の杖の節はくりぬかれて、中には薄荷水が詰めてあつた。
老人は村の歴史をよく知つてゐて、村の騒擾《ごたごた》を捌く智恵を沢山もつてゐた
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