『ぢや、旦那さま、なぜプーリは、なぜ犬は新聞を読まないので御座いますか――』
 犬は読まない、しかし自分は読めるといふ立場を強調しようとして、こんな珍妙な問を発したのであつた。
 博士はぐつと詰つた、そして額に眉をけはしくよせた。
『何、犬が新聞を――、わしはまだ、それは研究しとらなかつたよ、アハハハ』
 博士は哄笑した、夫人も博士に声を合せて笑ふのであつた、最初、新聞のことは大した問題ではないと空うそぶいた博士は、いまはこの犬が何故新聞を読まないのかと、愚問を発して主人に反抗する女中を追ひ払はなければ気がすまなくなつた。
 女中は帰国した、夫人が毎朝新聞を博士の枕元まで運んできたから、新聞に就いては何事も起らなかつた筈であつた、こゝに不思議なことが起つた、といふのは、博士はたつたいま夫人の運んできた新聞の折つたまゝのものを寝床に仰向いて眺めてゐた、すると新聞の折が崩れてゐるのだ、そんな日が幾日もつづきだした、何者か、毎朝自分の見るのに先だつて新聞を開いてみるのだらう、悪魔のやうな女中の奴はゐないのだ、するとあいつに変つて新しい悪魔が忍びこんだのか、――博士は或る朝、またも折目の崩れた新聞を夫人から受けとつた、寝床に仰向いたまゝ、博士は何か秘密を探るやうに、新聞を開いた、とたんに怖ろしく大きなクシャミがつづけさまに出て、同時にまるで槍をもつて不意に突かれたやうな痛みを、両眼にかんじ、半こはれの機関銃を発射したやうに、クシャミは続けさまに出て、博士は両眼の痛みをしつかりと両手で押へ、クシャミをしながら、部屋中を狂ひまはるやうに駈けあるいた、夫人が襖をひらいて驚ろいて其場にやつてきた、夫人は博士を抱へるやうにして台所に連れてきて、水道の水で眼を洗滌し、ハンケチで幾度も鼻をかんでやることで、眼と鼻の苦痛は漸くにして去つた。
 博士の不機嫌な顔を見ると、その顔は夫人が結婚以来始めてみかけるやうな異状な不機嫌な顔をしてゐた、博士は無言のまゝで再び自分の寝床に引帰して行つたが、寝具の傍に投げとばされてある新聞を、怖ろしいもののやうに、再びそつと開いてみてゐたが、その時博士の表情は異常な驚ろきで痙攣し、殆んど口がきけないものの興奮にとらはれたのであつた。
『あゝ、プーリが、プーリが――』
 博士はかう叫ぶと新聞を鷲掴みにして夫人の部屋にやつてきた、博士は再度『あゝ、プーリが、プ
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