た。彼は工場の窓を乗りこえると、人々の寝息を窺ひながら、叮嚀に自分が配つたビラを一枚一枚ふつてみて、おふくろの小為替がビラに密着《くつつ》いてゐないかどうかを調べだした。
 一つの布団でふいに男が顔をあげて、きつと少年をにらみつけて
『誰だつ―貴様は―』
 と低い声でいつた、失敗つたと思つたが、少年は
『誰でもない―静かにしろ、おれは共産党だ』その男はくるりと布団をかぶつて、底の方へゴソゴソと芋虫のやうにもぐつてしまつた。
 ビラを調べてゆくうちに、ふと小為替はシャツのポケットに入れてあつたことを思ひ出した。果してポケットに入れてあつたので、彼はそのとき危険な場所を去りだした、少年はあわてゝ寝てゐる男の頭をいやといふ程足で踏みつけた、男の叫びと部屋中の混乱を背後にきいて、窓から戸外にむかつて暗がりの中に飛び下りると、少年の飛び下りた尻が爆弾の炸裂するやうな大きな音をたてた。それは少年が飛び下りた窓の下が鶏小屋のトタン屋根で、彼はそれを踏み抜き、ギャア、ギャアといふ鶏の狼狽する声と、争議の籠城組との騒ぎの叫びとで、深夜のこの工場地域に住む人々をみんな起き出させてしまつたことを知つた。
 暗黒の中を少年は、ひた走りに仄明るい夜空をめがけて走りだした。走り乍ら少年は可笑しくてたまらなかつた。『共産党だ―』と出鱈目を言つてやつたら、ゴソゴソと布団の中に恐縮して頭をひつこめた男のことを思ひ出したのである。少年はふと手にビラが数十枚残つてゐることに気がつき『こいつもついでに張つちまはう』と呟き、そして暗がりの手にふれたところの壁に一枚を張つた。どうやらその塀は長くつづいてゐるらしいので、少年は嬉しくなつて、どんどんと急スピードで次々と塀に張つて行つた。本能的な快楽がこの少年を捉へて無我夢中でビラを張つて行つた。壁は何処までもつづいてゐたがこの永遠につづく壁への闘ひを楽しむやうに少年は張つていつた。最後の一枚を張り終つたとき、手元のぼんやりした明るさで、そのビラを張つたところが壁の尽きたところで、しかも彼が張つたところは壁ではなくて、大きな木の看板であることを知つた。彼が張つたビラの板に浮き上つてゐる文字を読みくだして、少年は呆きれてしまつた。永遠につづく塀、その塀つづきのところにかかつてゐる板には『××警察署』と書かれてあつた。そして少年の背後には一人の背の高い警官が立つてゐて
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