ゐて、確にデパートの監視員にまちがひなく、然もじつと彼の挙動に注意してゐた、彼はその日は帰つた。
 一晩中彼の頭の中の策戦本部は活動してゐた。翌日彼は売場にやつてきた、意外なことだ、前日にはなかつたのに、立像の台に三本の針金がかけられてゐて、堅く陳列台にとりつけられてゐた。
『ははあ、俺がねらつてゐるのを感づいたな―』
『よろしい、こつちだつて手はあるさ―』
 彼はぷいと子供のやうに不機嫌になつてその日は帰つた。
 翌る日、彼はデパートの地階金物売場で、小さな道具を一つ盗んで、二重マントの下に隠して、六階にあがつて行つた。
 彼はマントの中から、盗んできた針金切断用のペンチを出して、立像の台の針金を一本だけ切つて、その日は帰つた。翌日も一本、翌る日も一本切つた。彼はどうして一度に三本の針金を切らないのだらう、仕事は毫末も急ぐ必要はなしと彼は考へたからで、三日かゝつて切つたことは、針金さへ彫像の台についてゐれば、その一部が切断されてゐても安心してゐるといふ、間抜けな監視者に油断させるためでもあつた。また殆んど衆[#「衆」に「ママ」の注記]人監視の中のこの針金切断の仕事は、瞬間的である必要があつたし、遂あせつて二本、三本を切つて立像の前で時間をかけて失敗をすることを極度に怖れたのであつた。
 四日目最後の決行に出かけた。そして至つて容易に台の上のナポレオン立像は、彼の二重マントの袖の下に隠された。
『やい、ナポレオンの立像奴、貴様の運命は、俺の手の中にあるんだ、家へ帰つて俺は貴様を鋳潰してやらうわい』
 金の立像を抱へて昇降機《エレベーター》にのつたが、その下降につれて陶然と掏摸といふ職業的な恍惚感にひたつた。六階から下りて、四階で沢山のお客がエレベーターに鮨詰めに入つてきたが、不幸な事に彼の二重マントが込み合ふ客の体に揉みあげられて、マントの袖がめくりあがり、其処から燦然として立像が現れた。人々の視線が、ハッとそれに注がれたとき、彼は心に『失敗《しま》つた』と叫んで素早く立像を持つてゐた手を離してしまつた。
『掏摸だ――』と叫んだ者が一隅にゐて、その男の腕が乗客の肩の上から、彼の襟首にのびてきた。彼はその男が前日自分を見詰めてゐた監視人であることを知つて慄然となつた。乗客は混乱に陥り、エレベーターの底を、ナポレオンの立像はゴロゴロと音をたてゝ走りまはり、人々の足がそれ
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