い、夜は怖い、どういふ風の吹きまはしか、珍しく彼は夜の稼ぎに出掛けた。
 そこはお邸街であつた。塀を乗り越えて邸へ忍び込まうとし、塀に手をかけると、塀ではなくて建物の壁であつた。裏口から忍びこまうとして木戸にさはると、裏口ではなく玄関に面した木戸であつた。伝吉にとつては大いに昼間の掻攫ひと調子が違つた。
 彼は次第に大胆になつた。暗闇を恐怖し、昼の明るさを恐れない、いつもの調子に戻つたことを、彼自身で気がつかなかつたのだ、掻攫でなく、大盗になつた自信で、一番明るい煌煌と電燈のついた邸に向つた垣根を身軽に乗りこえて、芝生に立つた。みると大きな応接間の細長い窓が『お前が忍びこむには丁度いゝ窓の高さだよ』と彼を手招いてゐるかのやうだ。窓下にすり寄り、両開きの窓を開き、垂れてゐるカーテンに両手で掴まり、のびあがり部屋の内部を覗いた。室内は彼を落胆させるに充分であつた。見掛けは立派な応接室の内部がガランとして貧乏人の住居を想像させた、盗るものといつては一つもない。彼はしばらく考へてゐた。彼の考へは間違つてゐた、実は室内は贅沢に整理された空虚さであつて、大きな金縁《きんぶち》に何やら青い色が詰めこまれた洋画や、書棚、安楽椅子など、何れも高価でないものはなかつた。
 彼にとつてこの種の調度品は、量《かさ》と重みがありすぎた。彼は結局書棚の上の銀色の装飾的な花瓶を失敬することにきめ、窓から室内に辷り込まうと努力したが、窓は案外の高さで、徒らに彼はカーテンを手で引つぱるだけであつた。彼を不意に驚ろかしたのは、突然何やら重いものが首と胸とを抱きかゝへたことで、彼は驚ろいて尻餅をついた。よくみると彼があまり激しく引張つたので、金具の鐶が千切れてカーテンが、彼の首に落ちてきて、女がショールをかけたやうに首のまはりに引かゝつた。彼は張り切つてゐた力が抜け、何もかもが嫌になつた。カーテンをショールのやうに首にかけたままで、ふらふらと夢遊病者のやうに邸内を出た。彼がその邸をものの数歩も出たと思ふと路は商店街に通じてゐて彼を明るい灯のもとに押し出してゐた。
 夜の明るい人通りの中に立つて、すべての恐怖は去り、つくづくと彼は自分の首にかけてゐるカーテンなるものを見た。絨毯のやうに重い、赤と黄と黒との混ぜ織りで、黄は金色に見え、赤は朱に見え、芝居の緞帳よりも、もつと美しい立派なカーテンであることが判つ
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