人分の食事と、第三の部屋には、ものを言はぬ女が坐つてゐて、第四の部屋には一人分の寝台とが用意されてをりました。
黒い騎士も、さすがに不思議に思ひながら寝床の中にもぐりこんで眠りました。
果して真夜中頃遠くから足音がしてやがて、その足音は、騎士の室《へや》に忍びこみました。
騎士は寝息を殺して、じつと様子をうかゞつてをりますと、前夜のやうに
『もし/\、太陽の申し児のやうな、たくましい旅の若者。わたしが、一生のお願ひがございます。』
と女が小声で言ひました。
騎士は、やにはに、がばと飛び起きて、しつかりと女の袖を、捕へました。しかし女は少しも逃げようとはせず、窓から戸外をながめながら遠くを指さします、そしていかにも案内をするやうに、自分が先にたつて歩るきだしましたので、騎士は狐につまゝれたやうに、その後について行きました。
すると女は野原の暗がりを十丁程も先に立つて歩るきましたが、女の着いたところは小高い丘になつてゐました、そしてそこの草の茂みの中に二三十の石碑《せきひ》がならんでをりました。
女と騎士は墓場にやつてきたのでした。女はその石碑のうちの小さいのを指さして、唖のやうに無言に、土を掘れと手似《てまね》をするので、大胆な黒い騎士は、度胸をきめて土を掘りました。
なかゝらは、まだなま/\しい赤児の死骸が出てまゐりました。
女はこれをながめて、にや/\と笑ひました。
五
女は不意に、赤児の腕をぽきりと折つたと思ふ間に、むしや/\と喰べ始めました。
さすがの黒い騎士も、からだに水を浴びたやうに、恐ろしく思ひました。
しかしこゝで弱味を見せてはならないと心に思ひましたので、女が次の腕をもぎとつて喰べだしたとき、だまつて手を差しだしました。
騎士は赤児の腕を喰べようとするのです。女はこれをみて声をあげて、笑ひました。そして赤児の頭をもぎとつて、騎士の手に渡しました。
騎士はその赤児の頭をうけとると、眼をつむつて、夢中になつて噛りつきました。
赤児の頭は案外柔らかく、そしてぼろ/\と乾いた餅のやうに欠け落ちるのです。その味はなんだか、蜜のやうに甘いやうに騎士には思はれました。
騎士は頭を喰べおへると、また手を出して赤児の足をくれと女に言ひました。騎士は何が何やら、わけがわからなくなつてしまつたのでした。
そして騎士は、まつ暗な墓場のなかで、赤児の死骸をぺろりと平らげてしまひました。
そのとき何処《どこ》からともなく、法螺貝の音が聞えました、つゞいて人馬のひゞきが起りました。騎士は暗がりの中からあらはれた、たくさんの手のために、其場に押し倒され、頭からすつぽりと袋のやうなものをかぶされてしまひました。
そして騎士は、馬の背にのせられて、どことも知らず運んでゆかれました。
*
なんといふ明るさでせう、騎士が馬から、おろされたところは、まつくらな墓場とは、似ても似つかない、昼のやうにあかるく七色の花提灯《はなちようちん》をつるされた、大理石の宮殿の中でありました。
黒い騎士が旅の目的地であつた、王城の中に立つてゐたのでした。
やがて正面の扉がひらかれて、白い長い髯を垂れた王さまが、にこ/\と笑ひながら出てまゐりました。
それよりも驚ろいたことには、野原の中の古ぼけた寺院の怪しい女が、見ちがへるほどに美しい服装をして、これもにこ/\しながら現れました。
『旅の騎士、太陽の申し児のやうな勇ましい若者。あなたの不審はもつともです。』
かう口をきつて王さまが物語るには王さまが国中でいちばん勇ましい王子を選むためにぜひ、騎士達の通らなければならない野原の寺院に、王女を住はせました。そして路には、家来の者を隠してをいて、いち/\通る騎士の数を、法螺の貝をふいて合図をして知らせました。
王女はその合図によつて食事やら寝台やら秣桶、毛ブラシなどの用意をいたしました。
そして王女はその夜泊つた騎士のうちから、いちばん勇ましい騎士を選んだのでした。
ではあのまつ暗な墓地で喰べた赤児はどうしたのでせう。
みなさん、その赤児といふのはほんとに馬鹿らしい程、お可笑なものです。それはお砂糖でこしらへた、赤児のお人形さんであつたのです。
黒い騎士はその日、りつぱな式があつてめでたく王子の位についたのでした。(大15・9愛国婦人)
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或る手品師の話
老人の手品師が、河幅の広い流れのある街に、いりこんで来たのは、四五日程前でした。
手品師は、連れもなくたつた一人で手品をやりました。
――はい、はい、坊ちやん。嬢ちやん。唯今この爺《ぢ》いが、眼球《めだま》を抜きとつて御覧にいれます。
手品師は、両手で右の眼を押へて、痛い痛い、と言つて泣きました。
それから手品師は、はつと気合をかけて、眼から手を離すと、驚いたことには、手品師の眼は抜きとられて、右の掌《てのひら》の上に、眼の球がぎらぎらと、お日さまに光つてゐました。
――やあ、眼球《めだま》だなあ。
――驚ろいたなあ、本当の眼球《めだま》だ。
見物の子供達は、驚ろいてしまひました、ところが、手品師の掌の上の、眼球をだんだんとよく凝視《みつめ》てゐると、これはほんものの眼球ではなく、ラムネの玉ではありませんか、見物人が呆れてぽかんとしてゐると、老人の手品師は、
――あははは、みなさん左様なら。
かう言つて、そのラムネの玉やら、赤い手拭やら、鬚の長い綿でつくつた人形やら、剣やら、様々の手品の種のはいつた、大きなヅックの袋を、やつこらさと背中に担いで、さつさと次の街角に行つて了ひました。
手品師は、街角から、街角に、歩るき廻つて手品をやり、夕方疲れて宿に帰るときには、この街の街端《まちはづ》れを流れる河岸に、かならずやつて来ました。そしてこの河岸の草の上に、足を伸ばして、一日の疲れを河風に吹れました。
手品師の宿といふのは、それは汚ならしい小さな家で、小さな室《へや》に、六人も七人ものお客さんがあつて、重なり合つて眠らなければならない始末ですから、それよりもかうした奇麗な水の流れを見て、涼しい河風に吹れて休んで居た方がいゝと思つたのでした。
*
ある日、この老人は、ごほん、ごほん、と続けさまに、たいへん咳が出て手品の口上も述べることも出来ないほどでした。
それに体がだるくて、手足がみんなほごれてしまふのではないかと、思ふほどに疲れを感じましたので、手品を早くきりあげて、いつもの河岸の河風に吹かれたなら、少しは気分が治るであらうと、河岸にやつて来ました。
そして、手品の種のはひつた袋を、枕にして寝ころび、青空をながめました。
するとその日にかぎつて、ついぞ思ひ出しもしなかつた、友達の事やら、若いときに死に別れをした妻のことやら、天然痘で死んだ可愛い子供の事やら、これまで旅をしてきた数限りない街の景色の事やらが、つぎつぎと頭に浮んできました。
――わしの一生にやつてきたことをみんな思ひ出さうとするんぢやないかな。
手品師は、急にさびしくなつてきたので、かう独語《ひとりごと》をしてむつくり起きあがりました。
そのとき河の上流から、それは細長い格好のよい、青い青いペンキ塗りの船が一艘、静かにくだつて来ました。
――おーい、青い船待つてくれ、わしも乗せて行つてくれ、やーい。
と呼びとめました。
手品師は、急にこの街が嫌になつたのです、それで、この青い船にのつて河下の街に行つて見たくなつたのでした。
青い船の船頭は、河岸に船をよせてくれましたので、手品師は船に乗りました。船には一人のお客さんもなく、がらんとしてゐました。
――船頭さん、わしはこの日あたりのよい、甲板《かんぱん》に居ることにするよ。
かう手品師が言ふと船頭は
――お客さん、其処に坐つてゐては駄目だよ。いまにお客さんで満員になるんだから。
とかう言ふので手品師は、鉄の梯子《はしご》を、とんとんと船底に下りて行きましたが、船底にも、一人のお客もありませんでした。
*
青い船が、下流の街について、手品師が船底から甲板にあがつて見ると、船頭の言つたやうに、なるほど甲板の上は、船客でいつぱいになつてをりました。
この街は、手品師がかつて見たことのないやうな、美しいハイカラの建物の揃つた街でした。
地面はみなコンクリートで固めてあつて、見あげるやうな、高い青塗りの建物が、不思議なことには、その建物には、窓も出入口もなんにもない家ばかりであるのに、街には人出で賑はつてゐました。
手品師は、きよろきよろ街を見物しながら、街の中央ごろの、広い橋の上にやつてきて、そこの人通りの多いところで、職業《しやうばい》の手品にとりかかりました。
――さあ、さあ、皆さんお集《あつま》り下さい。運命の糸をたぐれば踊りだす。
赤いシャッポの人形。
旅にやつれた機械《からくり》人形。
とかう歌つて、手品師がたくさんの人を集めて、さて手品にとりかからうとすると、手品師は、たいへんなことが出来あがつたと思ひました。それは大切《だいじ》な大切《だいじ》な、職業《しやうばい》道具のはひつた、手品の種の袋を船の中に置き忘れてきてしまつたのです。
手品師は上陸するときには、青い船が岸を離れて、下流に辷つて行つたことを知つてゐます。
手品師は、見物人の前でしばらく思案をいたしました。
――さあ、手品師、手際《てぎは》の鮮やかなところを見せておくれよ。
――へい、そんな事は容易《たやす》いことで、わたしは、子供の時からこの歳《とし》まで三十年間も、手品師で飯を喰つてまゐりました。
――それでは七面鳥に化てごらん。
――へい、そんな事は容易《たやす》いことで。
――手品師、蟇に化けてごらん。
――へい、そんなことは、尚更楽なことで。
――それでは、烏になつてごらん。
――へい、なほ楽なことですよ。
手品師は、手品の種を無くして、途方にくれながらも、かう言ひながらしきりに思案をいたしました。
――手品師、お前は手品の種を、なくしたんだらう。
かう見物人の一人が言ひましたので手品師は
――いかにも、みなさん、わたしは手品の種を失ひましたが、種なしでも上手にやつてのけませう。
と言ひました。
青い街の人々は、一度に声を合せて笑ひました。
手品師は、そこでその橋の欄干の上に、立ちあがつて、水もなんにもない石畳の河底につくまでに、黒い大きな蝶々となつて舞ひあがり、もとの橋に戻つて見せようと、見物人に言ひ、そして橋の上から、ひらりと、眼もくらむやうな深さになる河底めがけてとびをりましたが、手品師は黒い蝶々にもなれずに、一直線に河底に墜ちてゆきました。
*
――やあ、手品師が死んでる。
青草の上に、冷めたくなつた手品師をとり囲んで、河岸で子供達がわいわい騒ぎました。
手品師は、眠つたやうな穏やかな顔をして死んでゐました、手品の種のはひつた袋を枕にして、その袋からは、綿細工の鬚の長い人形が、お道化《どけ》た顔をはみだして、子供たちの顔を見てゐるやうでした。(大15・12愛国婦人)
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或る夫婦牛《めをとうし》の話
……私の書斎に、遠くの村祭の、陽気な太鼓の音がきこえてきましたが、昨日からばつたりと、その音が鳴り止《や》んでしまひました。
……この破れた太鼓のお話をしようと思ひます。
*
――爺さんや、わしは今夜はたいへん胸騒ぎがしてならないよ。急にお前さんと、引き離されてしまふやうな、気がしてならないな。
――ああ、婆《ばあ》さんや、わしも胸が、どきん、どきんするよ、きつと明日《あした》は、何か悪るい出来事があるに違ひないな。
爺さん牛と、婆さん牛とは、小さな牛小舎の中に、こんなことを、しやべりあつてゐました、はては気の弱い婆さん牛は、声をあげて泣きだしました。
爺さん牛も、婆さん牛が、泣くので、つい悲しくなつて、大きな声でいつしよに
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