た。
だいぶ来たと思ふころ、烏は不意に魚を掴んでゐた手を離して一目散に逃げてしまひました、幸ひ魚の落ちたところが柔らかい青草の丘の上でしたから怪我をしませんでしたが、魚はたいへん悲しみました。
『あゝ、海が恋しくなつた、青い水が見たくなつた。白い帆前船をながめたい』
と、この丘の上で秋刀魚は口癖のやうに言ひました、ふと何心なく耳を傾けますと、この丘の下のあたりで、どうどうといふ岸をうつ波の音が聞えるではありませんか、なつかしいなつかしい波の音が、そして遠くのあたりからは賑やかな潮騒がだんだんと近くの方へひびいてきます。
烏に眼玉をやつてしまつた魚は、盲目《めくら》になつてしまつたので、そのなつかしい波の音を聴くばかりで、青い水も白い帆前船もながめ見ることが出来ませんでした、そして海風のかんばしい匂ひにまぢつた海草の香などを嗅ぐと、秋刀魚はたまらなくなつて、この青草の丘の上でさめざめと泣き悲しみました。
魚はまい日まい日丘の上で、海鳴りを聴く苦しい生活をしました。
或る日のこと、魚のゐる近くにお城をもつてゐる蟻の王様の行列が、魚のつい近くを長々と通りましたので、魚は行列の最後の方の一匹の蟻の兵隊さんにむかつて、自分の身の上を話して海まで連れて行つて欲しいと頼んでみました。蟻の兵隊さんはこのことを王様に申し上げました、蟻の王様はたいへん秋刀魚の身の上に同情をしてくださいました。そして早速承知をして、家来の蟻に海まで運ぶやうに下知《げち》をいたしました。
蟻は工兵やら、砲兵やら、輜重兵《しちやうへい》やら、何千となくやつてきて魚を運びだしました、烏や野良犬や溝鼠のやうに運ぶのに早くはありませんが、それでも親切で熱心に運んでくれましたから、幾日かのち、丘続きの崖のところまで運んでくれました。
この崖の下はすぐまつ青な海になつてゐました、魚は海に帰れると思ふと嬉しさで涙がとめどなく流れました、親切な蟻の兵隊さんになんべんも厚くお礼を言つて、魚は崖の上から海に落ちました。
魚はきちがひのやうに水のなかを泳ぎ廻りました。前はこんなことがなかつたのですが、ともすれば体が重たく水底に沈んでゆきさうになりますので、慌ててさかんに泳ぎ廻りました、それに水が冷めたく痛いほどで動くたびに水の塩が、ぴりぴりと激しく体にしみて苦しみました。
その上すこしも眼が見えませんので、どこといふあてもなくさまよひ歩るきました。
それから幾日かたつて、魚は岸にうちあげられました、そして白い砂がからだの上に、重たく沢山しだいにかさなり、やがて魚の骨は砂の中に埋《うづ》もれてしまひました。
さいしよは魚は頭上に波の響きを聴くことができましたが、砂はだんだんと重なり、やがてそのなつかしい波の音も、聴くことができなくなりました。(大13・8愛国婦人)
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青い小父さんと魚《うを》
あたゝかい南の国の、きれいに水が澄んだ沼の、静かな岩かげの深みに、黄色い上着に黒い棒縞のチョッキを着た、小さな魚の一族が暮らしてゐました。
なかでいちばん赤いズボンをはいたのが父親で、母親は赤い肩掛をしてゐました。
娘たちは淡桃色《うすもゝもいろ》のひだ飾りのついた、それは大きなリボンを結んで居りました。
いちばんの姉《あね》さんの魚は、たいへん活溌で、ことにダンスがそれは上手でした。
夕暮れになつて、お日さまはだん/\と森陰に沈みかけます。そして、
『沼の愛らしい魚達よ、左様なら。』
とはるかな夕焼けの空から、金色のあいさつを沼の水面に投げかけるころ。
姉さんの魚はきまつて何時《いつ》も、水面に浮んでまゐりました。
そしてこの金色《こんじき》のさゞ波にくるまつて、それは上手に踊るのでした。すると夕暮れの風は、急にはしやぎ出しますし、沼の周囲《まはり》の草木もさかんに拍手をいたします。
この姉娘の一家はむろんのこと、沼中の魚がみな、水底で夕飯がすむと、水面にうかんできてこの娘さんの、上手なダンスをながめるのでした。
姉娘は、きれいな金色の波にくるまつて、すい/\と水面に、できるだけたかく跳びあがりました。親達はまたたいへん姉娘の踊り上手をじまんにして居りました。
いちばん末の妹娘の魚は内気な性分でしたから、あまりダンスなどを好みませんでした。それでたつたひとりぼつちに、水のつめたいゆるやかな水底の砂地に坐つて、水草で赤と青のショールをあんだり、細かな七色の石をあつめて首飾りをつくつたり、ときどき誰もゐない水面にうかんで、小さな声で歌を唄つたりして遊ぶことが好きでした。
或る日妹娘が、いつものやうに、水面に小さな可愛らしい口を、ぽつかりと出して独唱をやつて居りますと、ふいに沼岸の草原にがさ/\と音がしました。
それは妹娘のいまゝで一度も見たことのないやうな、奇妙なかたちのものでした。
青いきら/\と光つた服《きもの》をきて、絶えずからだをゆすぶりながら歩るきます。その不思議なものは沼岸のところまでやつてきて、ぴんと頭をあげながらなれ/\しく、
『淡桃色《うすもゝいろ》のリボンをつけたお嬢さんよ、なんといふ、美しい声をおもちでせう。水の中にすんでゐる鶯のやうだ。』
かう魚に言葉をかけました。
魚はあまり不思議な姿をしてゐるものですから、
『貴方は、水の魚、それとも陸《をか》の魚、青い小父さんはなあに。』
とたづねました。
『青い小父さんは、水の魚だよ、あまり退屈なものだから、かうして土の上を散歩をしてゐるのさ、』と青い小父さんは答へました。
魚はびつくりしてしまひました。それは水に住む魚が、陸《をか》の上を散歩をするなどゝは、いまがいまゝで知らなかつたからです。
『水の魚が土の上を歩るかれるのかしら。』
魚はあまり不審なものですから、つい独語《ひとりごと》のやうに言ひました。
『そりや、いくらでも土の上を歩るけるさ、水の中を歩るくやうな、楽なことはないがね、それでも柔らかい青草の寝床もあつたり、まつかな果物が実つてゐたり、小羊といつしよに広つぱにあそんだり、小鳥の家《うち》に招待されてごちそうに、なつたりしてゐると、少し位の疲れたのは忘れてしまふよ。』
かう青い小父さんは話しました。
それから陸の上の景色は、水の中の景色よりずつと美しいことから、花園にすむ蝶々のはなし、人間の街と馬に乗つた兵隊さんのはなし、楽器の巧みな昆虫達のはなし、その他さま/゛\のおもしろいことを、青い小父さんはゝなしてくださいました。
魚はちよつと散歩をして見たいやうな気持になりました。
青い小父さんは、最後に魚に散歩をして見よう。案内は私がしてあげませうと、盛んにすゝめました。
青い小父さんは、自分が水の魚であるといふことを証明するために、水の中にはひつてさかんに泳ぎ廻りました、そのまた泳ぎ方が非常に上手で、どんなに姉さんが巧みに踊りながら泳いでも、とてもこの青い小父さんの足もとにも追《おひ》つかないほど、しなやかな体をして泳ぎました。
妹の魚はふと青い小父さんの体のどこにも、魚のもつてゐる鰭のないことに気がつきました。
妹娘は急に怖くなつたので、いつさんに自分の家に逃げ帰りました。
『あゝ怖かつた、わたしは魔法使の魚にあつたの。』
かう言つて家に帰つた妹娘の魚は眼をまんまるにしながら、くはしく様子を物語りました。
『まあなんといふ不思議な魚なんだらうね。』
母親の魚は言ひました。
『このとしになるが、ついぞ見たことのない魚だなあ……。』
父親の魚はしきりに頭を傾けて考へました。姉娘はたいへんはしやいで、明日は沼の岸に行つて、是非この美しい青い小父さんに逢つて、お友達になつていたゞかなければならない、ことにダンスが上手だといふのなら、わたしと青い小父さんと、どちらが上手か踊りくらべて見なければならないと言ひました。妹は姉にむかつて、その青い魚はきつと悪魔か、魔法使にちがひないからとしきりにとめましたが、姉娘はきゝませんでした。
その翌日、姉娘の魚は沼の岸に行つて、さかんに踊りながら、青い小父さんの来るのをまつて居りました。
『淡桃色《うすもゝいろ》のリボンをつけたお嬢さんよ、なんといふ踊りの巧みなことでせう。水の中にすんでゐる、蝶々のやうだ。』
かう言つて沼岸のしげみから出てきましたのは、妹のいつた青い小父さんでした。
姉娘の魚は、すつかりこの青い小父さんと仲善しになつてしまひました。姉娘はじつと青い小父さんのダンスを見て居りました。
なんといふしなやかな体でせう。
青い小父さんは、つまさきで立つて、空にむかつて棒のやうな体にしたり、からだをくる/\と石ころのやうに小さくして[#底本は「小さくて」]しまつたり、沼岸の柳の枝にからだを巻つけたり、それはさまざまな舞踊やら曲芸やらをやりました。
しまひには姉娘の魚と手をとりあつて、水の上でダンスをやりました。
青い小父さんの鱗《うろこ》は、それはこまかで、お日さまの光をうけてきら/\と青く輝きました。それから、かなり暫く青い小父さんと魚とは、きちがひの様になつて、水の上でダンスをやつてゐました。
それから五六日も経つたけれども、姉娘は沼底の家に帰つてきませんでした。
両親や兄妹たちはたいへん心配して沼の中を探しましたがみあたりません。妹娘の魚は魔法使の青い小父さんにきつと、姉さんは連れて行かれたに、ちがひないと信じました。
それから五日程して、よく沼岸の砂地にあそびにくる、尻尾《しつぽ》の短い赤い小鳥が姉さんの居処をしらしてくれました。
『この沼から十間程はなれた、青い草の寝床によくねむつてゐましたよ。』
赤い小鳥はいひました。
『まあ、あの子は何処へでもよく歩るき廻る子でね。』
母親は姉娘の居処が知れましたのでうれしさうに小鳥にむかつて言ひました。
それから五六日して、沼岸に赤い小鳥があそびにきましたので、
『あの子は、まだねむつてゐるでせうか。』
父親はかう小鳥にむかつてたづねました。
『よくねむつてゐますよ、黄色い上着もなにもぬいでしまつて、まつ白い体をしてね。』
小鳥はいひました。
『風邪をひいては困るのにね。』
母親はちよつと心配さうな顔をして言ひました。
それから五六日経つて、沼岸に赤い小鳥が来ましたので親達はまた、
『姉娘はまだねむつてゐるでせうか。』
と質《たづ》ねました。赤い小鳥は、
『ずいぶんよくねむつてゐますよ。眼玉がとけて了ふほどね。』
と答えました。
『まあ、なんといふ呑気《のんき》な、幸福な子だらうね。』
黄色い魚の一家のものは、みな安心したといふ風に、沼の水底の家に帰つて行きました。しかし妹娘の魚だけは、なにかしら悲しい気持がこみあげてきましたので、さめ/゛\と沼岸にいつまでも泣いて居りました。
いまでも姉娘の魚は青草の上にねむつてゐるといふことです。そして青い小父さんが、なんといふ名前の魚であるか、黄色い魚の一家はいまでも不思議に思つてゐるといふことです。(大14・1愛国婦人)
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お嫁さんの自画像
トムさんのことを村の人達は、馬鹿な詩人と、言つてをりました。
トムさんは、無口で、大力で、正直で、それにたいへん働きました、たゞひとつ困つたことには、畠に出て仕事の最中に、いろいろなことを空想し、それからそれと空想し、しまひには、まとまりがつかなくなつて、べたりと地べたに坐り込んで、頭を抱へたきり動きません。村の人達は、これを見て『ああまた馬鹿な詩人が何か考へてゐるな。』と笑つて通りすぎます。
トムさんは、いままでにお嫁さんを三人も貰ひましたが、トムさんがこんな具合に、畠に出て行つては、考へこんでばかりゐて、仕事が他の農夫の半分も、はかどらない始末に呆れ果て、みな逃げ帰つてしまひました。
それでトムさんも、もうお嫁さんは貰ふまいと決心してゐました。
村の人も、またトムさんのところへならお嫁さんにやらないと言ひました。
或る日、トムさんが畠に出て、一
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