居たのかい、わしはどれ程お前を、うらんでゐたかしれないよ。
 ――まあ、まあ、爺さん、わしもどれほど逢ひたかつたかしれないよ。
 爺さん牛と、婆さん牛は、思ひがけない、めぐりあひに、抱き合つて嬉しなきに泣きました。
 ――どどん、どん。
 ――どどんが、どんどん。
 赤いお祭り提灯が、ぶらぶら風にゆれ、紅白のだんだら幕の張り廻された杉の森の中では、いま村祭の賑はひの最中でした。
 爺さん牛、婆さん牛は、その祭の社殿に、それは大きな大きな太鼓となつて、張られてゐたのです。
 村の若衆が、いりかはり、たちかはりこの太鼓を、それは上手に敲きました。
 ――婆さん、わし達はこんな幸福に逢つたことはないなあ。
 ――わしは、あの丸い棒がからだに触れると急に陽気になつて、歌ひだしたくなる。
 ――お前とは、いつもかうして離れることがないし。
 ――あたりは賑やかだしなあ。わし達の若い時代が、いつぺんに戻つて来たやうだ。さあ婆さん、いつしよに歌つた、歌つた。
 ――どどん、どん。
 ――どどんが、どんどん。
 夫婦牛の太鼓は、七日の村祭に、それは幸福に鳴りつづきました。
 お祭りの最後の七日目の事でした。
 ひと雨降つて晴れたと思ふまに、凄まじい大きな、ちやうど獣の咆えるやうな、風鳴りがしました。
 すると森の木の葉がいつぺんに散つてしまつたのです。
 ――やあ、風船玉があがる。
 ――やあ、大風だ、大風だ。
 子供達が手をうつて空を仰ぎました。
 風船屋が、慌てて風船を捕まへようとしましたが、糸の切れた赤い数十のゴム風船は、ぐんぐんぐん空高く舞ひ上りました。
 陽気に鳴り響いてゐた、夫婦牛の太鼓が急に、大きな音をたてて、破れてしまひました。
 ――爺さん。わしは急に声が出なくなつた。
 ――うむ、わしも呼吸《いき》が苦しくなつてきた、ものも言へなくなつてきたよ。
 ――爺さん、またわし達の、ひつくり返るときが、きつとやつて来たのだよ。
 ――ああ、さうにちがひない、体が寒むくなつてきたな、婆さん。
 ――では、またわし達は、別れなければならないのかい。
 ――さうだよ、ひつくり返るのだよ、婆さんまた何処かで、逢へるだらうから、さうめそめそ泣きだすもんぢやないよ。
 一陣の寒い、冷たい風が、太鼓の破れを吹きすぎました。(昭2・3愛国婦人)

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トロちやん
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