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「午前零時
 西部防衛司令部発表
 最近
 蒋軍閥は我が国土の空襲を
 企図しあるが如し」と
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あゝ、驚ろくべし 永生きすれば悔多し
空の不安を満喫する


夕焼色の雲の断片

或るとき私はたくさんの血を吐いた、
意地の悪い悪魔が
肉体の中にかくれてゐて
私に生命の自覚を与へようとするかのやうに――、
べつべつと唾をするたびに
いつまでも執念ぶかく血がとびだした、
すると私はそのとき驚ろきもしない
悪魔よりも一層意地悪になつて
悪魔よりも一層執念ぶかく
いつまでも赤い唾を吐いてゐた、
私はそのとき位幸福を味つたことがない
――すべてが運命通りにやつてきた
さう思ふと運命といふものは
空間の中をもつともリズミカルに
踊つてすぎる『時』といふものだと考へついた、
それから心も体も調子づき
友達にも愛そが良くなり、
自分もたまらなく可愛くなつた、
それからはポケットに三枚も
ハンカチを用意して外出するほど
用心ぶかくもなつた
染物屋のかめのやうなものが私の体の中にある
いつ私がハンカチを染めるかわからない
私はおどろかないが
他人を驚ろかさないやうにするためには
あんまり体をゆすつたり駈けたりできない、
心の中から宿命的なものが
みんな逃げだしてしまつた
まもなく病気を忘れることに成功して
ハンカチも忘れて外出した
味方はもう沢山だ、
生きてゐる間にむしやぶりつく
敵を発見することに熱心になりだした
心をうちつけたところで
無数な鈴が鳴るやうに思ふのは
味方のためには銀の音
敵にとつては狼の歯の音、
私は生きてゐる自覚を
悪魔から[#「から」に「ママ」の注記]与へたことを奴に感謝しよう、
をえつもなくすぎた人生ではなかつた、
悲哀もとほりすぎたやうだ、
のこされたものは何もない
ただ吐きだす唾だけとなつた、
しかも生命の自覚にこゝろをどる
それは小さな無数の夕焼け色をした雲の断片のやうなものだ、
生命、愛、貧困、闘ひ、
あゝ、私のためのものはすべて終つたやうだ、
いまは強く唾を吐き
良き敵を求めることだけとなつた
(一三、一一、八夜)


作家トコロテン氏に贈る

思ひあがつた血走つた眼で
みるみるうちに人生の疑ひを解きほどし
いとも見事に書きあげた詩や小説
なんと嘔吐する程の数で
糞尿のやうに嫌悪されつつ
世間の中に撒き
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