人生に冷めたいものは冬と墓石だけで
人間の心は温いものと思つてゐたのに
冬の間――、冷めたかつたのは人間の心であつた
墓よりも冬よりも冷めたく
月よりも、秋よりも淋しい奴、お前人生よ、
春が来て私をちよつと許り私を嬉しがらせたとき
なまぬるい風が、街では病人を死へ運び去つた。
夜の群
人間とは救ひ難い者をも愛さねばならないのか
愚眛な動作で調子を合せて手の指を鳴らすナンセンス野郎も
金歯をむきだしにして笑ひ楽しんでゐる女も
壮観極りないほど鯨飲鯨食する徒も
燕尾服の前をはだけて立小便をしてゐる
胸に白薔薇を挿した泥酔漢も
よちよちと子供に手を引かれて
猥歌をうたひあるく職業乞食も
左翼ファンも文学青年も
ジレッタント学生、守銭奴の爺も
とろけた眼をしてゐる男色家も
これらのすべての者を愛する義務と
力とは誰がもつてゐるのか?
これらの悲しい愚かしい群は毎夜街をさまよふ
しかも彼等は何者をも怖れず
心の喜捨をも乞はず
強い独り語で満足してゐる
これら愚昧の徒は日増に街にあふれ
しづかに陥没するやうに夜となつた地球の
くらい階段にぞろぞろと降りてくる、
高遠な理想家、道徳家、政治家も
しばらくは呆然としてこれらの徒の
なすがまゝにそれをみてゐる
敷きのべられた夜を
足音も荒々しく心も散漫に
傾斜した街を彼等は降りてゆく
いまは道徳も何の説得力をもたない
この救ひ難い群を誰が救ふのか?
窓硝子
夜の寒い部屋の中で火もなく
ただ生きてゐる心をしつかりと
支へてゐる肉体だけが坐つてゐる
硝子窓にじつと呪はしい眼をおしつけて
戸外の暮れも押しせまつた街をみてゐる
喧騒もなく景品つきの騒ぎもなく装飾もなく
じりじりと新しい歳にくい入らうとしてゐる
戦争もまだ止まない
避けがたいものは避けてはならない――と
強い声がラヂオで吐《ママ》鳴つてゐる
やさしい猫が窓際にやつてきて
向ふ側から硝子戸に体をすりよせ
内側の私に媚びたやうな格好をする
少しも私が嬉しがらないことを知らない
彼女が熱心に笑ふそのやうにも
尻尾で猫はしきりに硝子を
はたはたといつまでも叩いてゐたが
急にすべてをさとつたやうに
また柔順な皮をするりと脱いで
野獣のやうな性格をちよつと見せて
閃めくやうに窓の下に落ちてみえなくなつた
光らない昼のネオンを
裏側からみることのできる
こゝの裏街の雑ぜんとした私の二階住居
罵しる詩を書く自由を自分のものにしてゐなければ
私は到底かうしたところに住むに堪へ難いだらう
自由はいつの場合もとかく塵芥の中で眼を光らしてゐる
幾人かの不遇なものゝために
生と死との間に自由を与へてゐるだらう
私もまたその間をさまよふのだ
冷めたい凍つた窓硝子に
顔を寄せ十二月の街を見おろす
幸福と退屈
ふしぎな時代に生れ合したものだ
その幸福さをしみじみと感じよう
人間と蛆と心中をするこの時代を感謝しよう
我々は生活の中で学びとつた沈黙の表情で
にやにやと笑つてすごさう
私は意地汚なく生きぬけるだけ
生きようとしてゐるものだ
火の歯車のなかに突入しようとする心を
じつと堪へて街を見る
白き千の箱、どれひとつ涙なくしては眼に映らぬ
退屈な奴はその退屈の長さだけ
キネマ館の周囲をとりまいてゐる
都会の哀愁は夕暮の靄にしづかに沈みただよふ
心躍らぬ奴は赤と白との玉を玉突屋の台の上で
ころがして遊びくらしたらいゝ
世紀を押し倒す力なく
ただ麻雀のパイは勇ましく倒れる
歯を抜かれた不快に似た不安が
永遠につづくかぎり
この酒のほろ酔ひも楽しいかぎり
まつたく何ものを怨むことはないが
まだ歯医者をにくむことは辛うじて残されてゐる
運命偶感
まだすり切れてゐない
私の運命よ
だがさういつまでも新しくはあるまい
次ぎの運命の引き継ぎのために
のこされた精神は
こゝらで石炭殻のやうになることを
私は怖れる
過去は打撃の多い
苦しみの多い生活であつた
運命を満腹さしてくれた
お前の行為に謝する
そして私の愛する民衆の愚眛と
聡明な時の流れに敬意を表する
詩人と秘密
秘密は沢山だ、散文家にまかせてをけ
彼等が秘密を保つこと大きければ
大きいほど大きな仕事ができるから――。
私は詩人だ秘密は大嫌ひ
現実から秘密を発見し
それを披露して人々に嫌な顔をさせたい
だが、すべての詩人は嘘吐きめだ、
まだまだ秘密の公開が足りない
君は真実の歌をさらけ出さない
散文家の大きな嘘は認めてやらう
小さな嘘は笑つてやらう
詩人の嘘は大小に拘はらず認められない
私は小さな嘘吐き共とたゝかふために
生活の上でも、
思想の上でもこんなに苦しんでゐる
馬鹿々々しいスタイリスト詩人共
日本にこれまでよき詩がないのは
君等が嘘でかためたニカワのやうに
立派に観念を固めるからだ
私のふるへる心臓をどうするのだ
どうしてこれを他人が押へようとするのか、
いまこそ知らせてやれ
いかに詩人とは生活が滑稽で
語ることがをかしくて
道化者のやうであるかを知らしてやれ
さて詩人の生活をものの二時間も語つてやれ
最初は面白がつて聞いてゐた奴等も
しだいに憂鬱な顔になるだらうから
秘密をさらけ出す詩人の性情は
すべてに憎まれるか迷惑がられる
それを怖れるな
大きな秘密を発見して
それを大きな考への下に披露してしまへ。
耳鳴りの歌
私の耳の中では
ソバカラを鳴らすやうな
少しのしめり気もない乾ききつて
鉄砲をうちあふやうな音がきこえた
私は心で呟やく、あゝ、まだ戦争がつゞいてゐるのだと
とてつもない大きな大砲の音がひびく
ほんとうの戦争よりも激しい
貧困とたゝかふ者もある
そして夜がやつてくると
どしんどしんと窓は何ものかに
叩きつけられて一晩中眠れないのだ
やさしい秋の木の葉も見えない
都会の裏街の窓の中の生活
ときをり月が建物の
屋根と屋根との、わずかな空間を
見せてならないものを見せるやうに
しみつたれて光つて走りすぎる
煤煙と痰と埃りの中の人々の生活も
これ以上つづくであらうか
愛といふ言葉も使ひ古された
憎しみといふ言葉も使ひ忘れた
生きてゐるといふことも
死んでゆくといふことも忘れた。
ただ人はゆるやかな雲の下で
はげしく生活し狂ひまはつてゐる。
私の詩人だけは
夜、眠る権利をもつてはいけない
不当な幸福を求めてはならないのだ
夜は呪ひ、昼は笑ふのだ
カラカラと鳴るソバカラの
耳鳴りをきゝながら
あゝまだ戦争は野原でも生活の中でも
つづいてゐるのだと思ふ。
そのことは怖れない
人民にとつて「時間」は味方だから
人と時とはすべてを解決するのだらう。
霧の夜
濃い霧は
私をうつとりとさせてしまつた
一間先も見えない
そこで私は一歩一歩前へあるいた
すこしづつ前方が見えてきて
あつちこつちで
ざわざわと人の立ち騒ぐ気配がした
しかし霧は濃く
人の姿はなかなか現はれない
なんと寂しいことだらう
しだいに襲つてきた霧は
すつかりと私をとりかこんで
わづかの空間をのこしたきり
私は正しくものごとを考へ
正しくものを視透す場所を
誰か他の者の手によつて
計画的にせばめられてゆくとしたら
それは恐ろしいことにちがひない
人々と心の連絡も切れてしまひ
そして霧の中で
むなしく行きちがひになつてしまふ
いまはじつと立ちすくんで
晴れてゆくのを待つてゐる
霧よ
晴れてゆけ
とほく轟と汽車のとほるひゞきが
一層私を不安にする。
大人とは何だらう
わたしの年齢は立派になつた
背丈ものびきつてしまつた
怖ろしいことと
辛いこととは
すべての人々と同じやうに私にも配分された
でもわたしはわからない
大人とは一体なんだらうと
もし私の鼻が喜んでくれるなら
鬚をたてゝみたい
もし私の唇が許可してくれたら
全部を語らずにいつも控へ目にしやべりたい
わたしはそれが出来ない
つくり声や、相手とのかけひきや、威厳の道具を
鼻の下にたくはへてをくことが
大人の世界に住む資格であつたら
わたしは永久に大人の仲間に入れない
わたしは大人のくせに
大人の仲間に入つてキョトンとしてゐる
勝手の分らないことが多いのだ、
思想の老熟などが
人生に価値あるものなら
わたしは明日にも腰をまげ
ごほんごほんと咳をしてみせる
一夜に老いてみせることも出来る
若い友達は
わたしをいつも仲間に迎へてくれる
だからわたしは
額に人工的なシワをつくつてをれない
たるんだ眼玉や、たるんだ声で
わかい精神を語れない
大人とは一体なんだらう、
死ぬ間際まで私はそれが判らないでしまふだらう。
旅行者
青年は眼ばかり若々しくて
体は生活で、さんざんに汚れてゐる
若い人生の旅行者よ。
僕は君とゝもに
若い手足のはたらきを
どれだけ果したか、
また果しつつあるかを反省してみよう。
風は雲をふり払つた、
だが依然として雲は湧きあがり
空から尽きようともしない
雲は風にいどみかゝつてゐる
君は自然の争ふさまや
悠久なありさまも忘れたのか
もし君が夜の墓石の上に枕をもちだし
夜つぴて星を数へてみたとしたら
明日は――きつと鳶になつてもいゝと思ふだらう
私はいまこゝに青年期のながさを打ち樹て
不老不死の精神に奉仕しようと思ふ、
若い旅行者は、
きのふ何処から出発してきて
けふ何処まで着いたか、
青春の歩みをもつて
太陽と月との着実な歩みに答へねばならない。
若い旅行者よ、
君の健脚のそのやうにも
君の思想を前進させよ。
嫌な夜
ざわざわと風が吹く
吊り下つた電燈は絶えず動く
遠く犬が鳴く
不安な胸騒ぎがする
沈着で禍などをすつかり忘れた
肥満した人間が酒をのんでゐるだらう
おどおどとして正直に
忙しさうに路をゆく人もゐるだらう
寝床をひんめくるやうに
地球の上から夜をひんめくつたら
優しい心を夜襲しようとして
狼の群が山の頂きに吠えてゐるだらう
ぐうたらな思策家が思はせぶりなペンに
インキをひたしてゐるだらう
なんて嫌な夜が続くのだらう
文学も、政治も、映画も、
みんな嫌な夜の中で案が煉られ
明るい昼の時間にもちだされる
ざわざわとした落ち着きのない
塹壕の中で立ち乍ら眠つてゐるやうに
すべての人々は嫌な夜を
不安な休息にもならない眠りをつづけてゐる
怒りをとろかす眠りを
うけいれる位なら
私は死ぬまで一睡もしないで狂つた方がいい
めざめてゐる昼の時間のために
良い妹のやうな夜であつたらいい
だが悪辣な女か、獰猛な猫のやうに
人々の心に噛みつくために
よつぴて人々の心の中を騒ぎまはる
夜よ、お前はかつてのやうに
暁を待つてゐる純情な夜ではなくなつたのか。
白樺の樹の幹を巡つた頃
誰かいま私に泣けといつた
白樺の樹の下で
幼い心が幹の根元を
三度巡つたときからそれを覚えた
草原には牛や小羊が
雲のやうに身をより添はして
いつも忙がしく柵を出たり入つたりしてゐたのに
私の小屋の扉は
いちにちぢゆう閉られたきりで
父親も母親も帰つてこなかつた
夕焼は小羊達を美しいカーテンで
飾るやうにして小屋の中に追ひやつたのに
ランプもついてゐない私の小屋の
恐ろしいくらやみが幼ない私を迎へた
百姓の暮らしの
孤独の中に放されてゐる子供は
樺の樹の幹を巡ることに
孤独を憎む悲しみの数を重ねた
いまでも愛とはすべてのものが
小羊のやうに
寄り添ふことではないのかと思つてゐる
いまでも人間とは小羊のやうに
体の温かいものではないかと思つてゐる
大人になつても泣けるといふことは
みな昔樺の樹を巡つたせいだ
鉄の魔女
しづかな嘘か、或は計画された情熱で
魔女をのせた車は足音を忍ばせて走る
人影はながく、土の上の車の軋りは
いつまでもいつまでも列をつゞける
辺りに眼もくばらずに
悲劇の法則を辷るやうに――、
こゝは曾つて平和であつた
こゝろよいクッションであつた
いま寝台の弾機は壊れてしまひ
デコボコの路に
ところどころ穴があいて水が溜つてゐる
一夜にして野はベッドの覆ひを
激しい風と火とで縦糸《たていと》を舞ひあげて
あとには赤い横糸《よこいと》
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