小熊秀雄全集−9
詩集(8)流民詩集1
小熊秀雄

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 二十年も、そのもつと前に、自分は詩を書き初めたとき、こんな念願をたてたものであつた、それは一生の間に自分の身長だけの高さの、詩集の冊数をもちたいものだといふことであつた。またその頃は、若く生命の燃焼ともいふべきものが旺盛であつたから、眼にふれるもの、心にふれるもの、みんな詩になりさうで、身長位の高さに詩集がもてさうな気もしたのである。
 ところで現在その慾望は果されたらうか。自分は今度の詩集発行を加へて、三冊目で当年四十三歳になつてしまつた。その詩集の高さは、身長どころか、ようやく足のクルブシを越へたにすぎない。詩人の中では自分は多作の方だがこの分では一生の間に、膝頭の高さまでにも達しないでしまふだらうと思ふ。今度の詩集に就ても、特別な選択を加へて、外見的にももうすこし、良い詩を集めることができたのだが、さういふ選択がいかに悪いことであるかといふことを感じたので、何にもかも洗ひざらひ収めることにした。
 この詩集は、選ばれた良い詩を読者に読んでもらうのではなくて、やつぱり良い詩も、悪い詩も、みんな読んでもらつて、人間小熊を理解してもらうことが一番正しいと思つたのでさうした。
 この詩集は頁の始めの方は極く最近の作であつて、後にゆくほど昔のものになつてゐる。大体昭和十二年始めから現在までのものである。
 だから若い読者は、後の方から読んでもらつて、年代的に自分の心の発展、推移といふものに触れてほしい。そこには若い正義感や、若気の過失や、いろいろのものがあるだらうと信じてゐる。
 そして年を老つた読者は、第一頁から読みすすめて、若さの性質といふものがどんな風に変るものかといふことを理解していただきたい。
 そして自分は、なんてまあ近頃の詩が、温順な、温和なものになつたかといふことを、自分でびつくりしてゐるほどだし、これから後にも決して乱暴な詩をつくるのが自分の目的でないといふことも反省してゐる。
 これは自分で発見したことであるが、この詩集をまとめてみると、その詩の中にいかに『夜』を歌つた詩が多いかに気づいて、それは日本といふ現実が、私の心の城廓の周囲を、いかに深い夜のやうな状態でとりかこんでゐたかといふことが回顧される。しかし自分は、独断とヱゴイズムでその暗黒の中を切抜けてきたなどとは思つてゐない。自分の心の城は崩れたのである。しかもそれはもつとも自然な状態に於て崩壊したやうに思はれる。

(入力者注)
底本には中野重治による「序」が掲載されている。ここではそこに引用されている小熊秀雄自身による序を独立させて収録した。

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通信詩集


馬の糞茸

なつかしい馬の糞茸よ
お前は今頃どうしてゐる
馬の寝息で心をふるはせ
馬小屋の隅で
ふしぎに馬にもふまれず
たつしやにくらしてゐるか、
春だものみんな心をふるはしてゐるだらう
お前の友だちの土筆はどうした
ひよろひよろした奴であつたが
気だては風にも裂けるほどの
優しい奴であつたが、
蝶々は相変らず飛んでゐるか、
なつかしい馬の糞茸よ
僕は都会にきて
心がなまくらになつたよ
靴をみがくことと
コオヒイをのむことを覚えたきり
なんの取柄もない人間となつた
馬小屋から馬をひきだすとき
奴は強い鼻息を
私の胸にふつかけたものだ
都会では私の、胸のあたりに鼻息を
ふつかけにやつてくるものは
悪い女にきまつてゐるよ
こ奴は私の胸にしがみついて
――あんた支那そばををごつて頂戴、だと
卑しい卑しい白粉臭い都会
私は田舎の土の匂ひがなつかしい、


ふくらふ

私の梟は
かなしみの中に
とぢこめられて眠ることができない
ばたばたと樹から樹へとぶ
そして唄ふ
――オー、オ、オ、オ、
  生れねばよウ
  オ、オ、オ、オ、オーイ。
私のふくらふは
恐怖を愛し
疑惑を楽しんでゐる
夜の巫女だ
曾つては予言者であつたが
いまはずつとたれより
いたいたしい心で祈る巫女だ
私のふくらふは
すべての眠りの中で
憎しみを歌ひ
すべてのものの夢の間に
撒きちらす魔法の粉のやうに
醒めても去らない
痲痺を撒く、
私のふくらふは
ふりまくものをもつてゐる
それは夜の間に歌ふといふことだ、


不眠症

私の太陽よ
お前は暁になることを
ぐづぐづしてゐるぞ
私のまんじりともしない眼は
月の光りにも劣らず
夜通し光つてゐる
夜の周囲のものは
ほゝゑんでゐるものはひとつもない
私の心もまたニコリとも笑はない
私は夜毎考へ
考へ疲れることを知らない
人々の不幸に就いて
また自分の不幸に就いて
ずいぶん長い間考へてきた

ながい、ながい夜、
微笑するものもない夜、
声たてるものもない夜、
窒息的な夜、
時計の針はてんで動かない夜
おムツが濡れて泣き叫ぶ赤児と
それをあやす母親の声が
きこえてすぐやんでしまふ
白い乳をゆすぶりながら
きまつた時間に
ガラガラと通つてゆく牛乳車
太陽よ、その頃お前はやうやく
うす桃色の光りで
窓のカーテンを染めだす
暁になることがなんと遅いことだらう
まつてゐるのは私ばかりでは
ないであらうに


春の歌

虫共はうごき始めた
乾いた土に列をつくつてゐる
私はそれをみると胸がつまつてくる
ヤキモチが焼ける
立派な目的のために
こいつらが歩いてゐるのだと思ふと――、
春がやつてきたのだ
昆虫も寒さから開放され
結核菌が殖えて
星の光りもにぶく
菫の花も咲く
春がやつてきたのだ。
小さな虫共の行手に指をたててみる
彼等は私の指を避けて通る
彼等は紳士的だ
おどろくほど沈着いてゐて
彼は彼の行手のために
行列を切断しない
私はそこに小さなものの
精神の鎖をみつけた
人間はどこで誰とつながつてゐるだらう
俺達人間は春を享楽できない
昆虫や草花に権利は引き渡してしまつた
精神は粗雑な何事も印刷出来ない
悪い紙のやうにペラペラだ
どうしてデリケートな春を
心に映しだすことができやう
勝手にホザク安いラッパのやうに
不平を呟やいて
それだけのことで終りだ
春も終りだ
もちろん夏も素通りだ。


新ドンキホーテ

若い跳ねまわる仔馬、
青春時代の勇気、
それを誰が引継いでくれるだらうか、
勇気のやり場は
街にはない、
若いくせにノラリクラリとした
思索がある、
街の若い仔馬は
精力のやり場にこまつてゐる
女馬は強い匂ひハッカ草を
たてがみにさして跳ねてゆく
男馬がちかづくと
女馬はうるさいといつて
後脚で蹴る。

ああ、ちかごろは日増に
滑稽な出来事が殖えてきた
そこで私が芝居気を出し
ドンキホーテを気取つて
動揺の多い街の中で
槍をふりまはす
槍は空をきつて
わが勇気は地に落ちる
だが私は信じなければならない、
それが芝居であるといふことを
忘れてはならない、
槍をふりまはすことも
敵にきつてかかることも
敵を切り倒すことも
敵にきられることも
すべては千年の後には
をかしな物語りであつたことがわかる
一九四〇年代の若い青年は
勇気のやり場に困つて
クラゲの三杯酢で一杯のんで
女給の脛に喰ひついたといふ
物語りも記録にのこるだらう
すべては順調だ

平野は涯もなく
風車は嘲ける
見よ、行手に白い羊の大群
ドンキホーテの
馬の鼻づらの向ふところに行手あり
ドンキホーテの手に
武器のある間は敵がある
進め
進め
青春の勇気を労費せよ。


偽態

あなたの青春
あなたの若さよ
いらだつてはいけない
おののく心を押へるには
ぬるま湯でのむ
カルモチン
ベロナール
眠気は恋も忘れてしまふ
男の真実は八百屋に売つてゐる
おのぞみのものを
お選び下さい
大根でも八ツ頭でも
私のいふことに嘘が多く
眼くらめく言葉の綾、
こゝと思へば
またあちら
私の真実はつひに貴女に捕へられず
私はむなしく
貴女に偽態の詩人といはれてしまつた
あゝ、情けない
情けない
私は個人主義者で御座います、
自分を救ふことが
私にとつて第一の事業で
それがすんだら、他人のために物語りをする
私は第一の事業は終りました
いまは物語りの真最中です
偽態とおもはれるものは
人々がのぞくために着てゐる
特別製の
私のマントであるかもしれない
でもあんまり
内輪はのぞかないで下さい、
偽態結構、
虚言結構、
私は路を知つてゐる
それは私が傷ついた路だ

地下鉄

デパートの地下室の
生け洲の中の
鯉のものうい動きを
煙草を吸ひながらみてゐる
私は前後左右を
たくさんの人にとり囲まれてゐる
この人たちはかならず
買物にきてゐる人でもない
私と同じに鯉をながめたり
噴水の水玉のあがるのをみてゐたりして
ぼんやりと時を労費してゐる
カナリヤの夫婦がキスをしてゐれば
靴下をはかない女の人も通つてゆく
私はそれからフラフラと
地下鉄に降りてゆく
不潔な煙筒に
入りこんだやうな不快感、
粉砕するやうな
音響をたてゝ
突入してくる電車、
眼を射る実験室的な
青い落下光線
幽霊が手で押して締めてゐる
ドアーヱンヂン、
赤子のやうに鳴る警笛、
ぼんやりと立つ
私はたいへん疲れてゐるやうだ
一九四〇年代の倦怠であらう
闘はざる勇士にも
ときには疲労も
襲つてくるであらう


夜の十字路

喜びいさんで節電す
明るさよりも
暗さに馴れる
国民の心がけ
ネオンは消され
夜の街
人々の享楽も影をひそめ
影のみ日増に濃くなる
うろつくものは
人か影か
陥ちこむ穴
地下鉄電車の入り口
ふいに砕けて眼を射るのは
電車のスパーク
青はよし
ニヒリストの心
ピイと口笛吹いて
私は呼んだ
私の子犬を、
私の影のかたまりを――




女は言葉で追ひつめて
男を自殺させる
力をもつてゐる
しかし男はなかなか
死なないだけなのだ
死にかはるものに
混乱といふものもある
私は運命のかなしさを
知り始めてから
愛をいつも屈折のある
むづかしい表情や心をもつた人に
求めようとする
私は傷つき易く
治ることが遅い心をもつてゐる
女よ、男をからかはないでくれ
距離をおいて軽蔑されるために
向ひ合つて座つてゐるやうな時間は
実に耐へがたい
雨が降つてゐる
彼女はやつて来ないだらう
私は雨の中をみてゐる
硝子戸越しに
外套をきた人の影が
痩せた動物のやうに
肥えた動物のやうに
細くなつたり太くなつたり
近づいたり、遠ざかつたりして
影は消えてしまふ
待つとも待たないとも
言ふことのできない焦だち
机の上には心を落ちつかせる色をしてゐる
ヱリカ、アポレリアの花、


類人猿

私は人間になりきれない
類人猿の悩みがある
私は人間になりきれない
いや――私は人間になつてやらない
もし環境でも変つたら
人間にならう
それまでは私は
狂ふやうに歩く
眠つてゐても窺つてゐる
叫んでゐても考へてゐる
泣いてゐても笑つてゐる
すべてが敏感だし、
環境だけが
私を猿の苦しみから救つてくれるだらう
どんな環境か――、
そんなことはちよつといへない、
そのときまでは救ひきれない
私は走りまはる
私は一切を愛する
私は悪女のやうな深情をもつてゐる
そして人間よりも活動的だ
そして何ものをも
自然から奪つたものは
自然へかへさない


黒い月

私は郊外をあるいた
月があまりに強く光つてゐて
月がかへつて黒く見えて
あたりが白く見えた
物語りめいた
黒い月など
みつけてしまつた
貧富の明暗
ビアズレイの画のやうな
白と黒との世界
世の中は黒い月をみつけるほど
なんでも逆になつてしまつた
恋とは失恋するために――
一生懸命になることだし
生命を縮めるために
生きてゆかうとしてゐる
黒い月が光るので
あたりが白くなる
印度人は白い服を着る
お前が黒い服を着たなら
却つて色が白く見えるのに
黒い月が光るので
なにもかも世の中が逆になつた


今日の仕事は

酒に水が割られなかつたとき
私といふ国民の傍に
ほんとうの酒があつたとき
私は飲むことを忘れなかつた
いまは忠実な国民として
全く禁酒してゐる
をかしなことには
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