で動かない夜
おムツが濡れて泣き叫ぶ赤児と
それをあやす母親の声が
きこえてすぐやんでしまふ
白い乳をゆすぶりながら
きまつた時間に
ガラガラと通つてゆく牛乳車
太陽よ、その頃お前はやうやく
うす桃色の光りで
窓のカーテンを染めだす
暁になることがなんと遅いことだらう
まつてゐるのは私ばかりでは
ないであらうに


春の歌

虫共はうごき始めた
乾いた土に列をつくつてゐる
私はそれをみると胸がつまつてくる
ヤキモチが焼ける
立派な目的のために
こいつらが歩いてゐるのだと思ふと――、
春がやつてきたのだ
昆虫も寒さから開放され
結核菌が殖えて
星の光りもにぶく
菫の花も咲く
春がやつてきたのだ。
小さな虫共の行手に指をたててみる
彼等は私の指を避けて通る
彼等は紳士的だ
おどろくほど沈着いてゐて
彼は彼の行手のために
行列を切断しない
私はそこに小さなものの
精神の鎖をみつけた
人間はどこで誰とつながつてゐるだらう
俺達人間は春を享楽できない
昆虫や草花に権利は引き渡してしまつた
精神は粗雑な何事も印刷出来ない
悪い紙のやうにペラペラだ
どうしてデリケートな春を
心に映しだすことができやう
勝手にホザク安いラッパのやうに
不平を呟やいて
それだけのことで終りだ
春も終りだ
もちろん夏も素通りだ。


新ドンキホーテ

若い跳ねまわる仔馬、
青春時代の勇気、
それを誰が引継いでくれるだらうか、
勇気のやり場は
街にはない、
若いくせにノラリクラリとした
思索がある、
街の若い仔馬は
精力のやり場にこまつてゐる
女馬は強い匂ひハッカ草を
たてがみにさして跳ねてゆく
男馬がちかづくと
女馬はうるさいといつて
後脚で蹴る。

ああ、ちかごろは日増に
滑稽な出来事が殖えてきた
そこで私が芝居気を出し
ドンキホーテを気取つて
動揺の多い街の中で
槍をふりまはす
槍は空をきつて
わが勇気は地に落ちる
だが私は信じなければならない、
それが芝居であるといふことを
忘れてはならない、
槍をふりまはすことも
敵にきつてかかることも
敵を切り倒すことも
敵にきられることも
すべては千年の後には
をかしな物語りであつたことがわかる
一九四〇年代の若い青年は
勇気のやり場に困つて
クラゲの三杯酢で一杯のんで
女給の脛に喰ひついたといふ
物語りも記録にのこるだらう
すべては順調だ

平野は涯もなく
風車は嘲ける
見よ、行手に白い羊の大群
ドンキホーテの
馬の鼻づらの向ふところに行手あり
ドンキホーテの手に
武器のある間は敵がある
進め
進め
青春の勇気を労費せよ。


偽態

あなたの青春
あなたの若さよ
いらだつてはいけない
おののく心を押へるには
ぬるま湯でのむ
カルモチン
ベロナール
眠気は恋も忘れてしまふ
男の真実は八百屋に売つてゐる
おのぞみのものを
お選び下さい
大根でも八ツ頭でも
私のいふことに嘘が多く
眼くらめく言葉の綾、
こゝと思へば
またあちら
私の真実はつひに貴女に捕へられず
私はむなしく
貴女に偽態の詩人といはれてしまつた
あゝ、情けない
情けない
私は個人主義者で御座います、
自分を救ふことが
私にとつて第一の事業で
それがすんだら、他人のために物語りをする
私は第一の事業は終りました
いまは物語りの真最中です
偽態とおもはれるものは
人々がのぞくために着てゐる
特別製の
私のマントであるかもしれない
でもあんまり
内輪はのぞかないで下さい、
偽態結構、
虚言結構、
私は路を知つてゐる
それは私が傷ついた路だ

地下鉄

デパートの地下室の
生け洲の中の
鯉のものうい動きを
煙草を吸ひながらみてゐる
私は前後左右を
たくさんの人にとり囲まれてゐる
この人たちはかならず
買物にきてゐる人でもない
私と同じに鯉をながめたり
噴水の水玉のあがるのをみてゐたりして
ぼんやりと時を労費してゐる
カナリヤの夫婦がキスをしてゐれば
靴下をはかない女の人も通つてゆく
私はそれからフラフラと
地下鉄に降りてゆく
不潔な煙筒に
入りこんだやうな不快感、
粉砕するやうな
音響をたてゝ
突入してくる電車、
眼を射る実験室的な
青い落下光線
幽霊が手で押して締めてゐる
ドアーヱンヂン、
赤子のやうに鳴る警笛、
ぼんやりと立つ
私はたいへん疲れてゐるやうだ
一九四〇年代の倦怠であらう
闘はざる勇士にも
ときには疲労も
襲つてくるであらう


夜の十字路

喜びいさんで節電す
明るさよりも
暗さに馴れる
国民の心がけ
ネオンは消され
夜の街
人々の享楽も影をひそめ
影のみ日増に濃くなる
うろつくものは
人か影か
陥ちこむ穴
地下鉄電車の入り口
ふいに砕けて眼を射るのは
電車のスパーク
青はよし
ニヒリストの心
ピイと口笛吹いて
私は呼んだ
私の子犬を、
私の影
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