時、二人の愛のはげしさに
火と氷も位置をかへたやうにでんぐりかへつて
雪の中を二人でさまよつたとき
雪のつめたさもまた火のやうに
二人にとつて熱かつた。
吹雪奴は
驃騎兵のやうに
鉛の弾を二人の頬ぺたや
黒い若々しい髪を撃つたが、
なんてまあ、痛いことも悲しいことも
苦しいことも、
恋はすべてを楽しく考へさせたらう、
ふきつける吹雪の中の
一つのマントの中から
四本の足が突きでゝゐた、
二本の足はゴムの長靴
いまひとつの二本の足は赤い鼻緒の下駄
一方の足がしつかり地に立つてゐるときは
かならず一方の足は宙に浮いてゐたし、
男と女とは
どつちかをマントの中でささへてゐなければ、
二人がその場にぺたりと
雪の中に座りこんでしまつたであらう、
恋の法悦の精神の動揺の、ランデブー
聖母の海の甘さと、
悪魔の地の辛さとが、
二つのこつぜんとした自然としての人間の
調和をもとめてマントの中の抱擁、
あゝそれは本能的な最初の接吻の音、
だがその時悪魔が
不可解な微笑をもらしたことを
聖母は少しも気づかなかつた、
永遠よ、女よ、
地の荒くれた精神を
掻きいだくお前海の慈愛よ、
そして地と海とは
しばらくの間はなだらかに
愛の接触のをだやかなさゞなみをたててゐた、
家庭はたのしく平穏で
はげしいものといへば
台所で火の上のフライパンの
ジャアといふもの音くらい、
『まあ、大変な音をたてるね、
 油がはねて危ないぢやないか、
 お前の美しい顔を
 火傷をしたらどうしよう、
 まあお前は女学校で
 家事の時間に教らなかつたかい
 フライパンに火が入つたときや
 油がはねるときには
 どうしていゝかを』
男は笑ひながら
手際よく傍のネギを鍋に投ずる
すると油のはねる高い
もの音は温和しくなつてしまふ、
『肉の切り方はあぶないよ
 お前の可愛い指を
 きつたらどうしよう、
 肉のきり方はかういふ風に』
男は牛肉のせんいの説明をして
庖刀をあやつつて
肉の正しい切り方を示してやる、
女はなんといふ該博な智識をもつた
若い夫だらう、
その親切さよ
長い運命の道づれのたのもしさ
未来の生活の豊富な男の愛情
を想像してこゝろを[#底本「お」を訂正]どらす
『いゝえ、私は学校では家事と
 おさい縫は大嫌ひであつたの
 でもそれはいけないことであつたわ、』
さういつて台所の調理の
技術のまずさをほこらしげに
それは女中のやうではなく、
娘のやうに我儘で愛らしかつたことを
言外にほのめかして男に甘える、
そしてうまい具合に
鍋の中の牛肉とねぎとは煮える
そして女と男とは向ひあつて、
子供のない食卓に差向ひで食べ始める、
『なんていふかたい葱でせう、
 貴方ゆるして下さらない、
 わたし、満足にすき焼もできないの』
さういつて女は箸を投げだして
袂で顔をおほつてしまふ、
なんといふことだ――、
なんていふ不思議なことだ、
男はおどろいて、女の顔にあてた
袂をのぞくと女は真個《ほんと》うに泣いてゐるのだ、
そして女はさめざめと尽きない泉のやうに
頬をぬらしていつまでも
泣いてゐるといふ気配をみせてゐる
美しい泣き方は、
眼から流れる涙はそのまゝに
頬にながれるにまかせ
紅潮した女の頬を美しく光らせ、
そして鼻水は上手に
袂でぬぐつてゐる
肉の柔らかさかたさ、
ねぎの柔らかさ堅さに就いて
たゞそのことだけで新婚のしばらくは
二人は泣いたり笑つたりして時をすごした、
フライパンに落したバターは
いつの間にか安いラードにかはり
それから時間が経つと
女は肉屋にせびつて
肉の脂肪をねだるほど
しだいに貧乏生活的になつてしまふ、
あの時の二人の生活は楽しかつた
二人の宿命の幕が開かれた許りであつたから、
いまはどうだ、ただかんたんに
言つてのけよう、
『それから十年の月目が経つた』と、
十年前台所で彼女がうたつた
ジョセランの子守歌は夫に封じられた、
彼女が巧みであつたサンタルチイヤの歌
“月は高く
 空にてり
 風もたえ、
 波もなし
 …………
 こよや友よ、船はまてり
 サンタルチヤ、
 サンタールチーヤ”
『よせ、愚劣な歌を、風もたえ、波もなしか、
 そんな、穏やかな現実に住んでゐないんだから
 時代は一九三五年だ
 無神論者の台所で
 サンタルチーヤでもあるまいて、』
男は罵る、女はピタリと歌をやめてしまふ、
風もたえ、波もなしの女の歌にかはつて
男はシェークスピアの
リヤ王のセリフを
机の上に片足をかけて大見得をきつて叫ぶ、
――吹けい、風よ汝《おのれ》が頬を破れ、
  荒れ廻れ、
  吹きをれやい
  汝《なんじ》、瀧津瀬《たきつせ》よ龍巻よ、
  吹け水を、
  風見車を溺らし、
  尖り塔の頂《いただ》きを水浸しにしてしまふまでも
  汝、思想の如く疾《と》く走る硫黄の火よ
  ※[#「※」は「木へん+解」209−11]《かしは》を突裂《つんざく》雷火《いかづち》の前駆《さきばし》の電光《いなづま》よ、
  わが白頭を焼き焦《こが》せ。
――ねいお母さん
  バルダク、ボリシヱ[#「ヱ」は小文字]ウィチ
  て知つてる、
彼女の傍にはいまでは十歳の少年がたつてゐる
母親の知らないこと柄を
日毎に新しくもちだしては母親を当惑させる、
――ねい、親父
  僕お酒ちよつぴりのんでみたいんだよ、
――よからう
――だつてロシアのお伽話にでゝくる
  バルダク、ボリシヱ[#「ヱ」は小文字]ウィチて
  七つの子供なんだが
  のんだくれで
  いつも酒屋で寝てるんだよ、
  するとキヱフの王さまが
  トルコ王サルタンを攻めるのに
  バルダクを大将に頼みにくるんだよ、
  そしてバルダクは攻めていつて
――あゝ、あゝその次は判つたよ
  敵のサルタンの七つの娘と
  天幕《テント》の中で寝るんだらう
――さうだよ、さうだよ、
  そして僕お酒をのんで
  強くなりたいんだよ、
――そして天幕の中で寝るか
  アハハハ
母親はオロオロとして
父親と息子の話の進行をきいてゐる
――まあなんていやらしい
  お伽話があるんでせうね、
性の世界では嫌らしい、
男のたたかひの世界ではどうか、
七歳の大将バルダクは
七歳のトルコ王の娘が女の性と愛情で
天幕の中で男の闘ひの
意志を溶解しようとして抱擁し
なまくらなものにしようと計画する
だが毅然として少年バルダクの
たたかひの意志は固い、
女が添寝しながら、
ひそかにバルダクの脛に
目印に金泥を塗つてかへる、
夜が明け放れ、陽があがると
娘はトルコ王の城へかへる
敵王の呼び出しで首領がどれか、
ひとめで脛の金泥がバルダクと
判らうといふ性的政策
男の智慧は無限にはてなし、
やめよ、はかない性のやさしい陰ぼうよ、
夜寝てゐる間だけ、とう酔があり、
陽があがると男の酔ひは醒めるから、
いつも精神に陽のあがらない
男だけが、昼でも夜でも、女に負ける、
もし女よ、
男を捉へてをかうといふ
男の愛情を永遠に絶対的に
しようとするならば
すべての窓をとぢよ、昼でも暗く、
部屋へ、精神へ、カーテンををろせ、
あゝ、だが部屋は閉ざす
ことができようが
宇宙の明りは消すことができない、
天地をすぎてゆく巨大な太陽は、
雀さへ、太陽がのぼると、
チチと鳴いてのきばで
ひとときの別れを
嘴を軽くつつきあつて
男の雀は女の羽を離れて
男は生活のためにとんでゆくではないか、
山寺の鐘がゴーンーンと鳴れば
明け方の障子紙に砂の微粒をうちかけてすぎたやうな
サーッといふ音がする
それは松の木をゆする[#底本「ゆる」を訂正]
爽快な風の音、
そして『離れ難たき肌と肌』と
東洋の古来の俗謡そのまゝ
歴史を超えて夜から暁まで
情痴の姿はくりかへされる、
『情愛の進歩性はないか、
 愛は絶望で愛は反覆であるか』
悪魔は長い生活の間
そのことを思索してきた、
悪魔の精神の逍遙は、ながくつゞいた
曾て可憐な若者の
なだらかな感情へは
いまは無数のヒビ割れができた、
結婚といふものは、思ひがけない、
プログラムをひろげるものであつた、
未婚の男女が
予期しないやうな筋書が開かれる
夫婦の生活の泡立ちは
若さに痛々しい、
離れ合はうとしなかつたのか、
逢ふ時間より、逢はない時間を
たのしむ、
たがひの生活に空間をつくり
空間を楽しむ術を知りだす、
空間のみがたがひの
自由の世界、哀しい、あはれな充実の世界、
サラリーマンの勤めの外出に
いそいそと三指を玄関につく妻
亭主の送り出しではなく
亭主の放逐であつた、――〈未完〉


きのふは嵐けふは晴天(抒情詩劇)

舞台 周囲が岩石ばかりの大谿谷の底を想像させる所、極度に晴れ渡つた早春の朝、遠くから太鼓のにぶい音と、タンバリンの低い音が断続的に聞えてくる、舞台ボンヤリとして何か間のぬけた感。
○いざり一、(空虚な舞台へ這ひ出てくる、舞台の中央でものうく、哀調を帯びて、間ののびた声で)右や左の旦那さま、(急速に)世界の果ての、(真に迫つて)果ての果ての、果てにいたるまでの旦那さま方
○いざり二、(ものうく、哀調を帯びて)右や左の奥様がた(急速に)世界の奥の、(真に迫つて)奥の、奥の、奥にいたるまでの奥さま方、
○いざり一、(天を仰いで)この晴れ渡つた空、心もはればれする日に、わたしの足腰が立たないとは(同情を乞ふ調子で)どうぞ皆様、御同情下さい(米搗バッタのやうに頭を下げる)
   (青年合唱隊の太鼓の音、次第に高く、きこえてくる)(元気に、軽快に、隊を組んで行進)
   (婦人合唱隊の、タンバリンの音きこえてくる)(女達は柔和で、リズミカルな動作、女性的に快活に、隊を組んで行進)
○合唱青年、(力強く)我々は足にまかせて、都会、山野あらゆるところを(間)行進する(急速に)人生の早足隊だ。
○合唱婦人、(優しく)私達は、静かに、(間)男達の仕事を見守る(急速に)人生の監視隊だ。
○合唱青年、(笑ひの合唱)ワ、ハ、ハ、ハ、(皮肉に)婦人達が我々の監視隊、それは良いことだ。
○青年一、(皮肉に)そして(徐ろに間ををいて)主として縫ひもの、つくろひものを、家庭にあつては、分担してをりますか(笑)
○青年二、それも必要だ、(高く)人生のほころびの縫ひ手は、(確信的に)彼女達だ。
○青年一、(激しく皮肉に)男が破つて、女が繕ふのか。
○合唱青年、(急速に叫ぶ)我々は力の象徴だ、打て、打て、打て、打て、太鼓を(太鼓乱打)音響をもつて空を引き破れ、あらゆるものを、ほころばせ、冬の雲を春の光りが、(歓喜をもつて)強く引裂くやうに。
○合唱婦人、(優しく)ダイナモのやうに、いつも元気の良い、青年達よ、(愛撫的に)よく磨いた鎌のやうな、聡明な若者たちよ。
○婦人一、あなたたちは女性の緩慢な愛にも堪へてゐる、忍耐強い友(激情的に)打て、打て(タンバリン乱打)情緒の金の針で、あなた達の心のほころびを私達が縫つてあげませう。
○いざり一、(大声に、そしてゆつくりと)右や左の旦那さま、奥様方、御騒々しいことでござります。(感動的に)皆さま方はお親しい、仲の良いことでございます。(青年に向つて)旦那さまがた。(急速に)すべてを裂け、(自問自答的にうなづきながら)ウム、すべてを破れ、だがお前さん達はこれまで、(間)女達の手に余るほどの、(間)大きな、ほころびをつくりだした、ためしがありますまい、口幅つたいことは、慎んでもらひませう、全世界の御婦人の、名誉の下に――
婦人四、(歓喜して)ほんとうに、いざりさん貴方の言ふとほりね、男らしい男は少ないのよ、ヒステリカルに、女性的に物を破る男達が、また頗[#「頗」に「ママ」の注記]分多いの、
○婦人一、古い思想を引きさくことも遠慮勝。
○婦人二、古い愛情から、別れることにも、おつかな吃驚。
○婦人三、古い科学を叩きこはすことも、臆病で。
○婦人四、古い芸術を、追つ払ふことも消極的。
○合唱婦人、(高く笑を含んで)まだ、まだ、わたしたち女性の大きな愛の手で男達はつぐのひ切れないほど、大きな破れをつくつてはくれ
前へ 次へ
全10ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング