重に抗議してやる
第一にサクラ子ちやんの毛布を
あの助平女流詩人から取りかへしてやる、
それから育児係りの辞表を叩きつけてやる、
尾山に父親の正統なる義務を果せと要求してやる」
四十九
尾山の共同生活の家にたどりついた頃は
大西はすつかり元気を失つてゐた、
「あんた達はゆふべ何処へ泊つたのよ」
りん子が六畳間からかう声をかけた
「野宿をしたんだ」
「まあ」といふりん子の声につゞいて
尾山の声で「大西君それだけはしないでくれ給へ」
大西は答へた「教育上よくないかね」
部屋に上つてみると、また運命が変つてゐた、
昨日の古谷は失脚して尾山清之助が
りん子の傍に丹前を着て坐つてゐた、
「すると今度は俺が丹前を着る番だな」
大西は心にさう思ふと穏やかならぬものが
胸から背骨の間を馳けまはるものがあるやうに
思はずぶるると身ぶるひした、
五十
その翌る朝がやつてきたが
大西は丹前を着る機会を失つてゐた、
しかも形勢は異状に展開し
依然として尾山清之助であつた、
その翌る朝もまたその次の日の朝も尾山は連勝し
古谷典吉、草刈真太は共同生活を去つてしまつた、
しかし大西三津三は育児係りの辞表を叩きつけ
りん子から毛布をとりかへす勇気もなく
サクラ子にせがまれると毎日散歩にでかけた、
きのふは新宿、けふは銀座、
銀座尾張町の時計店の前までやつてくると
サクラ子はとつぜん大西に向つて
「あたい踊りたくなつたわ」と
可憐な顔で訴へだした、
「踊つたらいゝさ」
「あたい踊るわ、おぢちやん何か歌つてね」
「よし来た、何がいゝだらうな
青い眼をしたお人形が、でゆくか」
銀座の昼の雑踏の真中で
大西は大きな声で「青い眼」を歌ひだした、
通行人はおどろいてその男の顔を眺めると
その男の足元に小さな女の児が
首を傾げたり、袂を口にくはひたり
手を上にかざしたりして踊つてゐるのを発見した。
五十一
たちまち物見高い都会では
通行人が退屈を救ふいゝ見世物が
こつぜんと鋪道の上に出現したといはぬばかりに
大西とサクラ子を取り巻いて人垣をつくる
その円陣の真中に大西は最大の熱情と
深刻さを顔に出現しながら歌ひ
サクラ子は無心な喜びで
手足ものびのびと可愛らしく踊りつゞける
大西はそのとき突然何を思つたのか
かぶつてゐた帽子をぬいで手にもつて
「諸君」と群集にむかつて叫びかけた
「諸君」僕は母親をなくしたこの子供の育児係りであります、
この子の父親は助平女流詩人に惚れてゐて
この子を構はんのであります
しかもその女はこの子の毛布をうばひました
われわれは野宿をいたしました
諸君。母親の働いてゐる家庭のために
母親をなくした家庭のために
託児所をつくれ!
託児所をつくれ!」
かう怒鳴つて群集の輪を大スピードで
大西は帽子をまはし始めると
チャリン、チャリン、と金属の音が帽子の中にとびこんだ
大西は敏捷な動作で帽子を二三回まはし
集まつた金を数へもせず鷲掴みで
ズボンのポケットの中へ落しこみ
「サクラ子ちやん大成功だ、もう踊らなくてもいゝよ」
とさつさと群集の輪を突切つてその場を去つた、
五十二
それからガードの入口にもたれてゆつくりと
金を数へてみると、銀貨銅貨とりまぜ一円七十五銭
カフェーのマッチが一個に、キャラメル三粒、
意気揚々と省線電車に乗りこんだが
乗客が多くて電車は押すな押すな
見ると一個所大きく席があいてゐる
そこには酔つぱらひが吐いたヘドが
一間四方の放射状に散つてゐて
誰もその前に坐るものがゐない
エビフライの断片とウドンのまじつた嘔吐で
おそらくビールと泡盛と日本酒を
ちゃんぽんにのんだ悪酔がさせたわざであらう、
大西はサクラ子をつれて
そのヘドの前に十人分の坐席を
二人で占領してしやあしやあと
のびのびと悠々と済ました顔で乗つて帰る
五十三
大西とサクラ子が家にたどりつくと
まだ明るいといふのに
不思議にも家中の雨戸がしまつてゐる
尾山とりん子が外出して留守かと思ふと
雨戸のすき間からチラホラと灯がもれ
人のゐる気配がする
怪しいぞと大西が足音を忍ばせ
雨戸のすき間から中を覗くと不思議な光景だ、
昼だといふのに雨戸をしめきつて
部屋の真中の瀬戸の大火鉢を
尾山とりん子が挾んで坐つてゐる
尾山が火箸を一本
りん子が火箸を一本
それぞれ一本づゝの火箸を手にして
無言劇のやうにだまりこくつてうなだれて
火鉢の中の灰をそれでひつかきまはしてゐる
かたはらのチャブ台の上には蝋燭の灯、
たがひに語ることも尽きてたゞ運命の倦怠、
尾山が灰の上に火箸でAと書けば
りん子が灰の上にBと書く
尾山が灰の上にZと書けば
りん子が灰の上に○を書いてしくしくと啜り泣く
大西は雨戸のすきまからじつとそれを覗く、
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