げに
それは女中のやうではなく、
娘のやうに我儘で愛らしかつたことを
言外にほのめかして男に甘える、
そしてうまい具合に
鍋の中の牛肉とねぎとは煮える
そして女と男とは向ひあつて、
子供のない食卓に差向ひで食べ始める、
『なんていふかたい葱でせう、
貴方ゆるして下さらない、
わたし、満足にすき焼もできないの』
さういつて女は箸を投げだして
袂で顔をおほつてしまふ、
なんといふことだ――、
なんていふ不思議なことだ、
男はおどろいて、女の顔にあてた
袂をのぞくと女は真個《ほんと》うに泣いてゐるのだ、
そして女はさめざめと尽きない泉のやうに
頬をぬらしていつまでも
泣いてゐるといふ気配をみせてゐる
美しい泣き方は、
眼から流れる涙はそのまゝに
頬にながれるにまかせ
紅潮した女の頬を美しく光らせ、
そして鼻水は上手に
袂でぬぐつてゐる
肉の柔らかさかたさ、
ねぎの柔らかさ堅さに就いて
たゞそのことだけで新婚のしばらくは
二人は泣いたり笑つたりして時をすごした、
フライパンに落したバターは
いつの間にか安いラードにかはり
それから時間が経つと
女は肉屋にせびつて
肉の脂肪をねだるほど
しだいに貧乏生活的になつてしまふ、
あの時の二人の生活は楽しかつた
二人の宿命の幕が開かれた許りであつたから、
いまはどうだ、ただかんたんに
言つてのけよう、
『それから十年の月目が経つた』と、
十年前台所で彼女がうたつた
ジョセランの子守歌は夫に封じられた、
彼女が巧みであつたサンタルチイヤの歌
“月は高く
空にてり
風もたえ、
波もなし
…………
こよや友よ、船はまてり
サンタルチヤ、
サンタールチーヤ”
『よせ、愚劣な歌を、風もたえ、波もなしか、
そんな、穏やかな現実に住んでゐないんだから
時代は一九三五年だ
無神論者の台所で
サンタルチーヤでもあるまいて、』
男は罵る、女はピタリと歌をやめてしまふ、
風もたえ、波もなしの女の歌にかはつて
男はシェークスピアの
リヤ王のセリフを
机の上に片足をかけて大見得をきつて叫ぶ、
――吹けい、風よ汝《おのれ》が頬を破れ、
荒れ廻れ、
吹きをれやい
汝《なんじ》、瀧津瀬《たきつせ》よ龍巻よ、
吹け水を、
風見車を溺らし、
尖り塔の頂《いただ》きを水浸しにしてしまふまでも
汝、思想の如く疾《と》く走る硫黄の火よ
※[#「※」は「木へん+解」209−11]《かしは》を突裂《つんざく》雷火《いかづち》の前駆《さきばし》の電光《いなづま》よ、
わが白頭を焼き焦《こが》せ。
――ねいお母さん
バルダク、ボリシヱ[#「ヱ」は小文字]ウィチ
て知つてる、
彼女の傍にはいまでは十歳の少年がたつてゐる
母親の知らないこと柄を
日毎に新しくもちだしては母親を当惑させる、
――ねい、親父
僕お酒ちよつぴりのんでみたいんだよ、
――よからう
――だつてロシアのお伽話にでゝくる
バルダク、ボリシヱ[#「ヱ」は小文字]ウィチて
七つの子供なんだが
のんだくれで
いつも酒屋で寝てるんだよ、
するとキヱフの王さまが
トルコ王サルタンを攻めるのに
バルダクを大将に頼みにくるんだよ、
そしてバルダクは攻めていつて
――あゝ、あゝその次は判つたよ
敵のサルタンの七つの娘と
天幕《テント》の中で寝るんだらう
――さうだよ、さうだよ、
そして僕お酒をのんで
強くなりたいんだよ、
――そして天幕の中で寝るか
アハハハ
母親はオロオロとして
父親と息子の話の進行をきいてゐる
――まあなんていやらしい
お伽話があるんでせうね、
性の世界では嫌らしい、
男のたたかひの世界ではどうか、
七歳の大将バルダクは
七歳のトルコ王の娘が女の性と愛情で
天幕の中で男の闘ひの
意志を溶解しようとして抱擁し
なまくらなものにしようと計画する
だが毅然として少年バルダクの
たたかひの意志は固い、
女が添寝しながら、
ひそかにバルダクの脛に
目印に金泥を塗つてかへる、
夜が明け放れ、陽があがると
娘はトルコ王の城へかへる
敵王の呼び出しで首領がどれか、
ひとめで脛の金泥がバルダクと
判らうといふ性的政策
男の智慧は無限にはてなし、
やめよ、はかない性のやさしい陰ぼうよ、
夜寝てゐる間だけ、とう酔があり、
陽があがると男の酔ひは醒めるから、
いつも精神に陽のあがらない
男だけが、昼でも夜でも、女に負ける、
もし女よ、
男を捉へてをかうといふ
男の愛情を永遠に絶対的に
しようとするならば
すべての窓をとぢよ、昼でも暗く、
部屋へ、精神へ、カーテンををろせ、
あゝ、だが部屋は閉ざす
ことができようが
宇宙の明りは消すことができない、
天地をすぎてゆく巨大な太
前へ
次へ
全25ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング