い、純「スラブ」的な声
これこそ唯一の彼にとつて愛《いと》しいものだ、
老いが、愛しい声をすりへらしてゆく、
ブルジョア国の政治的庇護も
彼の肉体の衰へは支へることができない、
音声の力学的効果を
とらへることに就いての天才だ、
あゝ、だが歌ふ彼の肉体の
生理的な組織は頽廃期に這入つてゐるのだ、
このことだけは、この歌ひ手の肉体の
個々の細胞に関すること柄だ、
彼の肉体ではいま
生きる細胞と―
死する細胞と―の激しい葛藤に速度を加へてゐる
13
シャリアピンは己れの滅びる細胞を
意志に還元して
それを伝へる対象をもつてゐない、
ゴルキーの滅びる細胞は、
バブロフの滅びる細胞は
ソビヱットの若い世代の
若い人々へ伝達される
そこでは不滅の細胞と化す、
14
カスタルスキイは
農民のための新しい音楽の創設に一生を捧げて
七十歳の高齢で、若いコンソモールの群に、
とりかこまれて死んでゐる、
ショスタコーウィッチ(一九〇六年生)は
十五歳で作曲を発表し批評家を驚ろかした、
十八の時シインホニイを書き
二五歳を出でずに新しい祖国のイデオロギーを立派に作曲した
「静かなるドン」の編曲者
ゲオルギイ・リムスキイ、コルサコフはどうしてゐるだらう、
コーヴリは、ロバチェーフは、クラアセフは、
兵士のための合唱曲やマーチの作り手は
都会の労働者と農民のための
これらの作曲者はどうしてゐるだらう、
作曲者は、歌ひ手は、ロシアには
雲のやうに沢山ゐるのだ、
これらの人々は現実的な愛国者だ、
だが祖国を失つたシャリアピンは
追想的な愛国者だ。
15
芸術の純潔性を
守らなければならないために
ソビヱットを去つたシャリアピンの、人間的弱さを、
それは言ひかへれば彼の芸術は脆かつたことだ、
芸術の純潔といひ、強さといふのは、
新しい試練に堪へ得るものだ、
大きな孤独よ、
祖国を去つた瞬間、シャリアピンは
集団的な政治的な協力者を失つた、
彼はブルジョア国の中で
全く個人主義的な力で
自己の芸術を固守していかなければならない立場になつた、
大きな寂寥よ、
16
東京駅頭で、ウラーの声に彼は迎へられた、
帝政時代の三色旗を手にした
白系露人の群に、
この三色旗はいまでは玩具に属してゐて
現実にはそんな旗の国は
とつくに滅びてしまつてゐるのに、
こゝにも馬鹿気きつた頑固の夢を
抱いてゐる人々がそれをしきりに振つてゐる
17
表面的な日本人の顔色の黄色さと
カラコロと鳴る下駄の音と
ホールの中の一色の拍手と
これらの日本の現象的な拍手の中に
わがシャリアピンは見事に歌ひあげたのだ、
日本の音楽理論家たちは
シャリアピンは最も正しい発声上の、
横隔膜側腹呼吸に拠つて歌つてゐるとか、
「発声学的零点の保持」
つまり音域の高低にも
喉頭の位置を上下させないといふ
理想的な型を示してゐるとか、
さまざまな批評で賑やかだ、
技術ではない、声の高さではない
わたしの心を、心を―
と一方ではシャリアピンは叫んでゐる
18
富士山の山姿の
現象的ななだらかさのやうに―、
日本の楽壇も現象的にはなごやかなものだ、
だがこゝのジャンルでも
詩や、劇や、小説のジャンルと等しく
底では、地軸では、海底では
はげしく争ひ鳴つてゐるのだ、
日本の楽壇でもショスタコーウィッチの
音楽理論を排撃する一派と
支持する一派とが喧嘩をして
支持派は団体を脱退して
新しいグループを作つたり
進歩的な争ひは展開してゐる
舞台裏でシャリアピンと握手した松田文相は
それからものの一週間も
経たない間に頓死してゐる、
日本の現実も相当忙がしい、
ホールの上から眺めた日本
自動車で通りすぎた日本とは
またちがつた激しい日本があることを知らない、
シャリアピンは拍手の中に歌ひすぎてゆく
19
わたしは少しばかり
御主人シャリアピンの
悪態を言ひすぎたやうだ、
蚤の立場を忘れてあまりに
人間的になつたやうだ、
だがわたしは真実を語ることに
臆病でないことは
血を吸ふことに遠慮しないことと
同じだから仕方がない
まもなくわが主人シャリアピンの肉体が、
しだいに冷えてくるだらう、
その日、私は新しい肉体の所有主に移転するだらう、
だがもう亡命者と道連れになることは懲々だ。
長長秋夜《ぢやんぢやんちゆうや》
――ぢやん、ぢやん、ちゆう、やは朝鮮語で長い長い秋の夜といふ意味。
朝鮮よ、泣くな、
老婆《ロツパ》よ泣くな、
処女《チヨニヨ》よ泣くな、
洗濯台《パンチヂリ》に笑はれるぞ、
トクタラ、トクタラ、トクタラ、
それ、あの物音はなんの音か、
お前が手にした木の棒から
その音がするのだ、
あつちでも、こつちでも村中で
夜になるとトクタラ、
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