て笑つた
権太郎は人々の軽蔑の笑ひを聴くと
一層悲しげな声をし
両手をもつて幅広い胸を抱えるやうにし、
その胸を天にまで突きあげようとする
はげしい、だが空しい意志を示しながら
――シャモ、おら、社会民衆党さ入つたテ、
と同じことを何時までもくどくどと繰り返し
人々が全く笑はなくなると
権太郎はフイと小屋を立ち去つて行つた。


    5

人々はアイヌの後姿を見送つた、
滅びゆく民族の影は一つではなく
いくつも陰影が重なりあつてみえるやうに、
彼等の肩や骨格がたくましいのに
妙にその後姿がしよんぼりとしてみえる
権太郎は戸外にでゝ
雪の中をとぼとぼあるく
小屋が見えたとき彼はピュと口笛を吹いた、
すると小屋の板戸は激しく
バタンと音して開き
中から一団の生物の固まりがとびだし
疾風のやうに路をとんでくる、
十数匹の犬の群があつた、
彼等はなんと走ることが巧いのだらう、
それは走つてゐるのか踊つてゐるのか判らない、
それほど犬達は美しく身をくねらし、
かぎりない跳躍のさまざまな形をみせて、
権太郎へ近づくと
主人に甘えながらクンクンと叫び
犬たちは崖へ駈けのぼる時のやうなはげしさで
権太郎の足さきから一気に
胸まで駈けあがり主人の眼といはず
鼻といはずペロペロとなめる、
――こん畜生奴、やめろテイ
彼は身を横にふる、
だが彼の顔は笑つてゐる、
三つの生物の親密の度合が
雪の中に高まつてゆく、
そしてあらゆる静かな周囲の世界の中で
もつとも動的なものとして動いてゐる。


   6

犬達はふざけ合ひ巧みに
歩るいてゆく主人の周囲に円を描きながら
小屋へ近づくと権太郎はホウホウと、
大きな手をひろげ犬の群を追ふ
すると犬達は犬小屋へ去つてしまふ、
アイヌは重い小屋の戸に手をかけ
扉をひきちぎるやうに開く
戸の一端に縄で吊り下つてゐる
大きな鉄の分銅がガタンとあがり
権太郎が入つてしまふと分銅は
戸をしぜんに閉めてくれる
空が晴れてゐるのに強い風が吹いてきて
風が崖下の村へ雪を吹雪のやうに吹きつけ
海は轟々と鳴り岸の結氷は
ギシギシと音鳴り氷が着いたり離れたり
絶えまない氷の接触に
どうしても聞き分けることのできない
人間の声のやうに呟ぶやく、
鈍重な氷のうめきは断続し
時々積まれた空瓶が崩れるやうな
明るい音響をたてる、
その音響は空白な
衝動的な笑ひのそれに似てゐる、
そしてその物音は一層
周囲の陰鬱さを色濃くする。


   7

若い山林検査官が村に入る岬の
突端の細い路に現れた、
彼は人の良い微笑をもつて周囲をみまはしながら
旅行者らしく前屈みに歩るいてゐる、
腰には撃つた鳥を数羽ぶらさげ
歩るくたびにぶらりぶらりと
山林官の腰のあたりに
装飾品のやうに揺れてゐる、
雪の通路は堅い
その細い路を踏み外すと
片足は膝まで雪の中に埋まる、
彼は何べんもその路を踏み外し
苦心をして埋もれた片足を抜かねばならぬ、
そのたびことに彼は立ち止まり
根気よく馬鹿丁寧に雪に塗れた
足から雪を手で払つてゐる、
彼の動作は非常に静かで、
曾つて自分が失つた何物かを
地面に探し求めて
あるいてゐるやうに絶えずうつむき
顔をあげたとき彼は強く
呼吸を吐きだすやうであつた。


   8

村にたどりついたとき海は全く
夕闇の中にかくれようとして暗く
最後の白い一線が沖合に光つてみえ、
村は海より一層暗く、
三方の山は暗さをもつて
村を全く膝下に捉へこんでゐた、
犬は村への来訪者を知つて
はげしくどの家の犬小屋の中からも咆えた、
彼は凍結した硝子戸から洩れる
ランプの弱々しい光りを
いちいち覗きこみながら
訪ねる家を物色する風であつた、
間もなく山林官は
小さな一軒の小舎の前に立ち
――親父、居るか、
と高い声で呶鳴ると中からは
オーといふ太い声がきこえてきた、
――誰だあ、
――おれだよ、
――あゝ、山林の旦那かあ、入れや、よく来たテ、
山林官はのつたりと小舎に入る
中ではアイヌの権太郎が突立ちあがり
意味のない感動の声をあげ
しばらくはゲラゲラと笑つて客を歓迎した、


    9

この権太郎の親密な小さな村では
遠慮といふことは軽蔑され憎まれてゐたから
お客はづかづかと土間の炉に
濡れた足を突込んだ、
山林官は猜疑深いアイヌ人と
上手に話をすることを知つてゐた
それは『真実をもつて語る』といふ以外に
この異民族と語る方法が
ないことを彼はちやんと知つてゐた
斯うした真実に対してアイヌ人は
それに底しれない愛情と純情を現して応へ
アイヌ人は可憐な動作や言葉の節々にも
思はず涙がにじむほど愛すべきものであつた、
夏の頃山林官は権太郎と
村の谿谷に添つて奥へ猟に行つた、
激しい谿流に突きあたつた時
二人はそれを渡らなければならなかつた、
山林官は水の流れの激しさに
暫し躊躇してゐると
権太郎は肩幅の広い背をつきだして
おんぶすれといつてきかない
アイヌは獣よりも確かな敏捷な足どりをもつて
飛石伝ひに彼を対岸まで運んだ、
山林官はその時のことを覚えてゐる、
大人が大人を背負つてゐるといふことは
平凡で異常でない出来事とはいへない
こゝではたゞアイヌの愛情がそれをさせた。
山林官が追想の中から引きだせるものは
かつて子供の頃父親の背に
背負はれた記憶がよみがへつたことだ。


    10

若い山林官とアイヌとは炉を挟んで
さまざまな世間話を始める
権太郎の息子が町の酌婦と駈落ちをしてしまつた話
そして息子は女に捨てられて
北海道の或る都市の活動写真館の
楽手になつてラッパを吹いてゐるといふ話
話し終ると権太郎は
――ほんとに餓鬼は、旦那、アイヌの面汚しだて、とつけ加へる
――権太郎、まあ息子は楽手になつたんだから出世したと思へ
と云へば彼はうんとうなづく
アイヌの父は社民党の演説をきいて
ついフラフラと単純に加盟し、
息子は街へでゝ映写幕の前の
暗いボックスの中でクラリオネットをふく、
すべて和人なみになつたことは
二人にとつて出世であり誇りにちがひない。
ただアイヌの仲間が死に、村を去り、
住居を孤立させられ、******、
同時に山にはだんだんと熊の数が
少なくなつてくるといふことが
最大の彼等の悲しみであつた、
そしてアイヌ達は*******
山の奥へ奥へと、林の奥へ、奥へと、
撒きちらすために入つてゆく。


    11

若い山林官もアイヌ達と一致するものをもつてゐる
それは意志の弱さの故に生活への
冒険を求めてゆく心理である、
大都会を遠く離れた北国の生活では
こゝでは良心的であればある程
村から離れて自然の中に
自由に隠れることができる、
だがこゝにも人間の狡猾さはあつた、
そして良心的なことは
これらの狡猾な人に便利がられ利用された、
山林官は鬱蒼とした林の路を
そして彼の耳に
はげしく盗伐の木の倒れる音を
聴きながして通つてゆく、
偶然山林官は村人が盗伐してゐる
場所に行き当ることがある、
すると百姓は鋸の手を休めて
木から離れ
――旦那、御苦労さんでがす
  まあ、一服つけて行かつしやれ、
彼はちらりとその百姓をみて
すべてを覚つてしまふ、
貧しい百姓が生活の糧や
小屋がけの材料や、冬の燃料のために、
おかみの所有物を盗んでゐるといふことを、
百姓の木を伐る手は、
泥棒をしてゐる、
だが*************、
一層悪いのは公然と
手も心も泥棒してゐる製材業者や
紙をつくる会社などであつた、


    12

これらの人々は林の木を乱伐し、
切り終へたころ『山火事注意』と
山林省でたてた林の中の立札の下へ
ポイと煙草の吸殻を捨てゝゆく、
火はトド松の根元から
猛然と一気に梢まで駈けあがり
バリバリといふ機関銃のやうな音をたてゝ
樹から樹へと燃え移る、
そして十里も二十里も幾昼夜も
夜の空を真赤にこがし延焼し、
そして山火事がしづまつたころは
樹の伐り口の鋸の跡はみんな
焼け焦げて判らなくなつてしまふ。
若い山林官はそのこともよつく知つてゐる
だがそのことを知つてゐることは怖いことである、
胸に畳みこんでをくことはつらい
若しそのことを*********
**************。
そして世間の人々は
――なんていふ****、
  樺太の事情を知らない、
  *****
ときまつていふ、
そしてその批評の後には必ず
――長いものには巻かれれといふことがある
と附け加へるだらう、
**************
************、
****客引き男の
長着物を着てもよく似合ふであらうし、
前垂をかければ商人にもよく似合ふ、
****をつければ若い**らしいだらう、
菜葉服を着れば職工にも、
白衣を着れば医者らしくもならう、
百姓のボロ着もよく似合ふ筈だ、
袖のあるものへ両手を通せば
その着たものに彼はピッタリする、
何故***************、


    13

彼自身その理由はよく判らなかつたが、
彼自身気づかぬ間に
彼の住む環境を北へ北へと
しぜんに移して樺太まで
やつて来てしまつたことを知つてゐる
そしてそこには彼にはかぎらない、
あらゆる人々が彼と
同じやうな経歴を持つてゐる、
世間では津軽海峡のことを
『塩つぱい河』といふ、
彼もまた人生のこの塩つぱい河を
とうとう渡つて殖民地の極北まで来てしまつた、
環境の独楽《コマ》はクルクルと
北へ移つて行つた
内地本土から追ひ立てられて
樺太の北緯五十度まで住居を押しつけられてしまつた、
アイヌ種族たちはその典型的な
生活の敗北者の群であつた、
こゝに住む一切の人々は
従つて生活の経験が異状であり
個性もまた異状であつた、
強い正義人たちがこれらの
人々の中に数多く混つて
大きな憤懣をいだきながら死んでゆく、
自然界の四季の変化が快楽であり
人間を嫌ふとき
山野には獣が彼等を歓迎した。
だが日本人たちは
この山野の獣たちにも
アイヌのやうに真に迎へられてはゐない、
日本人は狩猟が下手であつたし、
撃ちとつた獣の皮を剥いで
骨や死骸を平然と捨てさつたが、
アイヌたちは獣の骨を無数に
小屋の周囲に飾り立てた、


    14

彼等はこれを朝夕熱心に祈り、
獣の死の追憶を決して忘れようとしなかつた。
日本人は獣を祈ることさへできない
獣を撃つことは涯かに
アイヌ達より本能的であり、
************
平然として悔をしらなかつた、
山林官も最初火薬の炸裂する快感を味ひ
獣を追ふ本能から猟を始めた
たつた今兎が林の中を過ぎた
梅の花のやうな可憐な足跡は
雪の上にどこまでも続いてゐる
彼は何時でも発射できるやうに
銃を構へて熱心に足跡を辿つた
だが何としたことだ、
足跡は切れたやうにぱたりと停つてゐる、
天に駈けたか地に潜つたか、
皆目行き先が判らなくなつてしまつた、
彼は当惑し頭を掻きむしり残念がり、
そして連れの権太郎に救けを求める、
――シャモ、兎に
  馬鹿にされてるて、アハハ
とアイヌは腹を抱へて笑つてゐる、
そして権太郎は説明する、
かしこい兎は何時も追跡者のあることを
どんな場所でも予期してゐる、
プツリと足跡を切らしてしまふ、
兎は足跡を切るところで
数歩同じ足跡を逆戻りする
そして兎はそこで右へか左へか、
大きく精一杯脇の方へ
横とびに跳躍してしまふ、
そこからまた雪に新しい足跡をつけて進んでゐる、


    15

林の中で山鳥達を呼集める笛を
かくれながらしきりに吹く
すると山鳥たちは騒々しく
方々から集つてきて
笛を吹いてゐる上の樹の枝に
まるで鈴なりにならんで
嘴で突つきあつたり、おしやべりをしたり、
ざつと数へても三十羽はゐる、
射撃の位置はよし、銃は上等だし、
獲物はまるで手が届くところにゐる、
山林官は狙ひをさだめてズドンと撃つ、
だがどうしたことだ、
たかだか一二羽落ちてきたり、
時には一羽も撃つことができない
みんな羽音をたて、
驚ろいて逃げてしまふ、
一二羽を撃つために
呼笛をふいて三十羽も
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