よ、
 お前の現実は
 靴以外には無いくせに、
 お前が靴の寸法を間違へたら
 私が喝采してやらうか。
――お客よ、
 文士よ、
 お前の現実は
 原稿紙の枠を埋める以外にないくせに、
 お前が駄作を書いたら
 私が喝采してやらうか。
綱の上の私をして間もなく
新しい生活が悦こびを充満させた。
じつと綱をみつめてゐると
綱の細い輪郭はふくれ
しだいに太く見えだした。
四斗樽ほどにも太い連続に――、
そこへ一歩を踏みだすことが容易になつた、
現実の拡大か。
それとも現実からの
新しい現実のつまみ出しか。
とにかく、私は平地を歩るくやうな
安心さで、高いところの綱の上を渡る。
一粒の米をみてゐると、
こいつも味噌樽位の大きさに見える、
すばらしいぞ、
失業をしたら、一粒の米に、
般若心経二百六十二字を書いて
売つて暮らさうか――。
私はこの経験を兄弟子に語ると
兄弟子は眉をひそめながら私に言ふ
――可愛いタワリシチよ
 おゝ、それは正しくない、
 綱は決して四斗樽の太さぢやない、
 綱はあくまで綱の太さに尽きる、
 君の綱の見方は
 顕微鏡的現実だよ、
 君は正しいリアリストぢやないよ、
 君は間もなく落つこちるだらう、
 批評家、親方の――突込めの掛声に
 うつかり乗つたら大変なことになるよ、
親方はまた私に言ふのだ、
――綱の上で、もつと愛嬌をふりまくんだね、
 あんなしかめつらでは
 お客の人気が悪い
恐怖そのものだ、
私の生きた眼は顕微鏡になつたのだらうか、
あゝ、しかも死の上の現実には
しかめ面《つら》以外に表情がないではないか、
それに親方は笑へといふ、
真珠釦に、茶褐色筋入半ズボン
髪は鳶色、青い靴下、
薔薇の花を帽子にさして簪のやうだ、
幅広のカラーに
ゆつたりと結んだ桃色ネクタイ
これが私の服装、
オスカア・ワイルド風の
唯美派の道化服の手前、
綱の上で悲劇的なツラをすることが
調和的でないことを私は知つてゐる
だが別な批評家は私にいふのだ、
それで良いんだと――、
現実主義とはすべて悲劇的なツラであると――。
私もそれを正しいと思つた、
苦痛の中から
どうして笑ひをヒリ出すことが出来るか、
親方の私に要求する笑ひは
彼の営業政策からだらう、
それは先づいゝとして、私は私自身で
綱の上から真実に笑ひたいんだ――。
観客に向つて、こぼれるやうな、
笑ひを
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