官は水の流れの激しさに
暫し躊躇してゐると
権太郎は肩幅の広い背をつきだして
おんぶすれといつてきかない
アイヌは獣よりも確かな敏捷な足どりをもつて
飛石伝ひに彼を対岸まで運んだ、
山林官はその時のことを覚えてゐる、
大人が大人を背負つてゐるといふことは
平凡で異常でない出来事とはいへない
こゝではたゞアイヌの愛情がそれをさせた。
山林官が追想の中から引きだせるものは
かつて子供の頃父親の背に
背負はれた記憶がよみがへつたことだ。


    10

若い山林官とアイヌとは炉を挟んで
さまざまな世間話を始める
権太郎の息子が町の酌婦と駈落ちをしてしまつた話
そして息子は女に捨てられて
北海道の或る都市の活動写真館の
楽手になつてラッパを吹いてゐるといふ話
話し終ると権太郎は
――ほんとに餓鬼は、旦那、アイヌの面汚しだて、とつけ加へる
――権太郎、まあ息子は楽手になつたんだから出世したと思へ
と云へば彼はうんとうなづく
アイヌの父は社民党の演説をきいて
ついフラフラと単純に加盟し、
息子は街へでゝ映写幕の前の
暗いボックスの中でクラリオネットをふく、
すべて和人なみになつたことは
二人にとつて出世であり誇りにちがひない。
ただアイヌの仲間が死に、村を去り、
住居を孤立させられ、******、
同時に山にはだんだんと熊の数が
少なくなつてくるといふことが
最大の彼等の悲しみであつた、
そしてアイヌ達は*******
山の奥へ奥へと、林の奥へ、奥へと、
撒きちらすために入つてゆく。


    11

若い山林官もアイヌ達と一致するものをもつてゐる
それは意志の弱さの故に生活への
冒険を求めてゆく心理である、
大都会を遠く離れた北国の生活では
こゝでは良心的であればある程
村から離れて自然の中に
自由に隠れることができる、
だがこゝにも人間の狡猾さはあつた、
そして良心的なことは
これらの狡猾な人に便利がられ利用された、
山林官は鬱蒼とした林の路を
そして彼の耳に
はげしく盗伐の木の倒れる音を
聴きながして通つてゆく、
偶然山林官は村人が盗伐してゐる
場所に行き当ることがある、
すると百姓は鋸の手を休めて
木から離れ
――旦那、御苦労さんでがす
  まあ、一服つけて行かつしやれ、
彼はちらりとその百姓をみて
すべてを覚つてしまふ、
貧しい百姓が生活の糧や
小屋がけの材料や
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