も私は驚ろかなかつた、
私はこの花を平然とみてゐたとき
私の眼は白痴であつたのだ、
あらゆる事物に就いての
階級的観方といふものは
いつも単純であつていけないと考へこんでゐたから
私はいつもひがんでゐた、
あらゆる美しいものを
一応疑つてみてゐた
それは決して私の過失ではない、
私はどんなに細心と
おづおづとして
遠慮ぶかく自然や人間を見てゐただらう、
今ではすべては解決した、
自然は私に
何の犠牲的なものを要求する
権利ももつてゐないことを知つたとき
私は馬のやうに
自然の花をむしやむしやと喰つてしまふ
ことができるやうになつた、
樹よ、花よ、山岳よ、
あらゆる自然物よ、
一見厳《いか》めしさうにみえて
お前謙遜なものよ、
お前人間の生活の傍《かたはら》にあつて
たつたいまお前の上に夕陽が落ちた、
なんといふ美しさよ
私のものよ、
自然物よ、
私はお前を美しい事実として
歌ひ尽さなければならない、
歌ふとき
プロレタリアはお前のオゾンを吸ふ、
山よ、お前へ懐疑の
曳綱をつけて引つぱつたとき私は負けた
私がお前の樹の中へとびこんで
勢《ママ》いつぱい反抗を絶叫したとき
自然のあらゆる物音は私に調和した、
自然よ、お前は我々のやうに
無垢な心をもつてゐる
自然よ、私が曾つて少しでも
お前を功利的にながめたことを
ゆるしてくれ、とがめてくれるな、
お前の美は我々の本能的な眼に
依然として美しいものとして答へてくれる、
敵よりも、より多く、
お前の美しさに我々が感動するとき
お前はその時我々の好意をうける、
お前は我々の味方になる
私はお前を恋人のやうに見る、
お前のうつり変りの
はげしい感情に
我々は絶えず敏感になるだらう、
そしてお前を守るために
お前を愛するために
私は私の恋仇と私の敵と
あくまで戦ふであらう。


人魚

私が眠らうとするとき
崖の下では波音が鳴つてゐた、
そして私は眠りにおちた――、
時間が経つた。
私がふと目覚めたとき
崖の下ではやつぱり
波音が鳴つてゐた、
しかしその波は新しい波であつた筈だ、
現実よ、おゝ、私を洗ふものよ、
襲ふものよ、
お前はいつも
そのやうに新しいのだ、
波は一切のものを
鷲掴みにしようとする
真青な大きな手のやうにも見えた、
私は岸に立つて海をみながら言つた、
――波よ、
私の詩人はどうして
次ぎ次ぎと底から湧いてくる
お前の新しい歌と合唱ができないのか――と
すると波はわめいた、

――アンデルセンの人魚を見れ、と

その時人魚は海の中から現れた、
月に照らされながら――、
彼女は海の中の現実を見落した、
しづかに陸に上つてきた、
彼女の欲するものは
未知の世界であつた、
憧れの地上であつた、
彼女は海の中では
到底みることのできない
美しい花や、樹木や、鳥や、人間が
どのやうな形のものか知りたかつた、
人魚は陸を歩るいた、
しかし地上とは――、
到底想像してゐたほど美しくなかつた、
また到底堪へることができないほど
痛いものであつた、
一足ごとに足の裏は
茨か針を踏むやうに痛んだ、
私も人魚のやうに
生活の苦痛を踏まう、
未知の世界を憧れよう、
それは未知の世界を
海の中にではなくて
陸の上に求めよう、

波よ、私にかぶされ、
お前の塩分の為めに
私の身体はピンと引き緊められようから、
我は人魚のやうに――、
地上よ、
現実よ、
新しいお前の針を踏まう
私はお前に激烈に愛されよう。
私は激烈にお前を愛してやらう。


階級の教授

なんて私は私を蔑《さげす》むことが
不足してゐるのか、
そのことのできない間は
私の生活は
私の芸術は
犯罪にすぎない、
おゝ、人間は
なんて嘘をいふことに
馴れすぎてしまつたのか、
あいつの小説は
なんて難解極まるのだ、
なぜ我々に
やさしく運命に就いて
解説を与へないのか、
なんて表現は
検事の論告に馴れ切つてしまつたのか、
なんて、なんて馬鹿々々しい、
菜の花から油がとれることを
忘れてしまつたのか、
彼は土臭い人間のために、
たつたひとことでもしやべつたか、
刑務所の中の物語りはもう沢山だ、
いつまでパルチザン物語りでもあるまい、
ドニヱブロストロイの
掘鑿機のひゞきはやんで
流れはとつくに
海に注いでゐる、
たゞ我々の国の人間の精神は
貫通されてゐない、
真実は
嘘の岩石の間を
辛《から》うじてセセラギのやうに流れてゐる、
可哀さうな
細々とした真実よ、
おゝ、私は個人主義のために
立派に苦しんでゐる、
他人を教唆する権限を
誰から与へられたか
彼は知らない
それは怖ろしいことだ、
だれが君を階級の教授に任命したか、
だれが辞令をいつもつてきたか、
君は勝手に教壇に立つてゐるだけだ、
蔑《さげ》しめよ、
自己を、
教へる資格があるかどうか
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