ね。』
斯ういつて母親は
両手でしきりに息子の手をさすつた。
看守は烈火のやうに怒つた。
『よせ、飛んでもないことをしやがる。』
鬼奴は床をドンと
金棒で突いてイキリ立つたさうだ。
俺はこの話をきいたとき
母親とは、息子の手が冷めたい時は
手をさすつて温めてくれるものと始めて知つた。
俺にはそんな経験はないんだ。
なんといふ母とは優しいものだらう。
獄中の同志は
どんなに嬉しかつたらう。
俺たちは皆で
俺達の敵、ブルジョアを憎まう。
  母と息子の愛情を引き裂く奴。
  夫と妻との愛情を引き裂く奴。
  兄と妹との愛情を引き裂く奴。
俺達は誓はう。
奴等の臓腑は今に見ろ
ことごとく引き出して見せると。

母とは菫の花か、
それともチューリップのやうな優しいものか、
俺はその形を見たことがない。
俺の知つてゐるものは
同志の間の愛情だけだ、
そして激しい闘争のあひ間、あひ間に、
母親らしいものを探して見よう、
ビッショリと汗を掻くほどに
心ゆくまで敵と闘ふ、
そして野原に出て
風に吹かれたら、
母とはきつと春のやうに、
俺の手や頬を、優しくさすつてくれるものだらう。


代表送別の詩

世界は地つゞき
水つづきだ
風が吹いて来るとプンプンと
ソバと小麦が匂つてくる。
同志、行つて来いソヴェ[#「エ」は小さい「ヱ」]ートへ。
俺達はこゝにゐて聞かう
トラクター、ステーションの
旗のはゞたき、
ドニヱプロ・ストロイの
八十一万馬力の
落下する水の響きを――。
あそこでは
世界の不景気騒ぎをよそにして
九千百九十六万ヘクターの
収穫カンパの真最中だから。
派遣代表者諸君
日本の豚は
かういふ手つきで
幣束を数へるとか、
内股がすれるほど肥えてゐるから
歩るきつぷりが斯うだとか、
金ののべ棒をもつた
馬占山を追つかけ廻したときの
ラッパの吹きやうなどを
上手なみぶりで報告して
集団農場や工場やサークルの
若い突撃隊員を笑はしてくれ。

日本の羅紗工場は
夏の間から今も引続き労働強化だ。
重い、厚い、黄色い
兵隊の冬[#「冬」に「ママ」の注記]套をせつせと造つてゐる。
この外套を、誰れが、どこで
何を目的に、着るかを
日本の労働者、農民のことごとくが、
はつきりと知つてゐるといふことを
伝へてくれ。
同志よ俺たちへの土産は
マクニドゴルスク第二溶鉱炉の
火のやうな労働者の意志が
どんなに燃えてゐるか
敵に対する憤りの激しさを
火を噴くうなりのはげしさを
はつきりときいてきてくれ。


才能を与へ給へ

私は何者かの代理となつて
抗議しなければならない
自分のためにか、
あるひは他人のためにか、
あゝ、それは今しやべつてゐるものではなく
いまダマッてゐるものに
かはつて抗議の先頭に立たう、
あゝ、それは今走り廻つてゐるものでなく
いま足止めを喰らつてゐるものに
かはつて抗議をしてやらう、
高い――、
それは憎悪の大てつぺんの塔だ、
低い――、
それは悲哀の奈落の底の底だ
この高いところから
低いところまで
往復する私の肉体の消耗よ、
叫び、駈け廻つてゐるものは救はれてゐる、
だが、だまつて涙を
流してゐる弱い者はどうか
これらのもの達にかはつて
舌をうごかさう、
私の肉体を、
ぞんざいに使ひまくらう、
神よ、私にお前や
敵を罵る
悪口雑言の才能を与へよ。


散兵線

カーネーションの花に接吻する
呆然と河の流れに眼を凝らす、
夜つぴて思索する
女に逢ひに出かけてゆく、
読書し、詩を書く、
お巡りさんに頬ぺたをはり倒される
何故このやうに
さまざまの事件の
渦中にとびこんでゐるのか、
すべては、すべては、
向うさまの御意のまゝである、
あゝ、そして私の生活は
一度にカッと歓喜と苦痛とに
細胞は新しくなる、

歴史は井戸換へを要求した、
私は素直に服従した
いまでは新しい思索の水が
あふれ出る、
そして今では
をそろしく咀嚼のよい胃の腑と
乱雑な労働に堪える心臓をもつてゐる
享楽も、そぞろあるきも
あらゆる真面目、不真面目な
生活上の事件で
有用でないものは一つもない
皿の上のものはみんな喰つてしまふ
貪慾極まりない、
みんな血となり肉となる
労働の肉体では
いま新しい細胞が
散兵線を敷いてゐる。


甘い梨の詩

真夜中の人々の
寝息はきこえない
何処かで深い穴の上げ蓋をあげ
そこに一人の男が引き入れられるやうに、
私はともすれば夜のしづけさに私自身ひき入れられさうだ
私はほんとうに
このやうな時間に
このやうな態度で敵にむかつての反逆の詩をつくる、
そのことを嬉しいことと思ふ、
私の仕事のために
誰か私を支持してくれるだらう。
私は読者に注文を発しない、
私はどつちかの岸に立つてゐる
その岸の方の人々が私を祝つてくれるだらう。
それから先
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