塩を撒く
小熊秀雄
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鳶《とび》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ちよつかい[#「ちよつかい」に傍点]を
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ワン/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
(一)
彼は木製玩具の様に、何事も考へずに帰途に着いた。
地面は光つてゐて、馬糞が転げて凍みついてゐた。
いくつか街角をまがり、広い道路に出たり、狭い道路に出たりしてゐるうちに、彼の下宿豊明館の黒い低い塀が見えた。
彼は不意にぎくりと咽喉を割かれたやうに感じた。
――ちえつ、俺の部屋の置物の位置が、少しでも動かされてゐたら承知が出来ないぞ。
彼は山犬のやうな感情がこみあげてきて、部屋の方にむかつてワン/\と吠え、また後悔をした。
彼の親友である水島と或る女とが恋仲となつた。
二人の恋仲は、まるで綱引のやうな態度で、長い間かゝつても少しの進展もしなかつた、声援をしたり、野次つたり見物したりしてゐた彼は、まつたく退屈をしてしまつたのだ。
――そんな馬鹿な恋愛があるかい学生同志ぢやあるまいし、三十をすぎた、不良老年の癖に。
水島が彼にむかつて、彼女とは現在でも、肉的な交際がないと誇りらしい表情で、打開けたとき、彼は鳶《とび》に不意に頭骸骨を空にさらはれたかのやうな、気抜けな有様で、穴のあくほど水島の顔を、暫らくは凝然《じつと》見てゐた。
――でも君、女は若いんだし可哀さうだからな、それに家庭的な事情が僕達の前に横たはつてゐる大きな難関なんだ、もし僕が女と関係をした後で、二人が結婚まで進まなかつたらどうだらう、
――女を疵物にしては、良心に恥ぢるといふ意味だね。
――さうだよ、それに違ないよ、女の籍は絶対に抜けないらしいんだ僕の婿入りそんなことは僕の方の家庭の事情でできないことだしな。
水島は、ほつと吐息をついた、第三者の立場にある彼は、水島の恋愛事件に対しては、彼が横合から水島の女を奪はうとしない限り永久に第三者の立場にあつた、だから彼は、勝手なことを考へ、勝手な助言を水島にした。彼はもう見物にあきがきたのであつた。
――水島の女に、ちよつとちよつかい[#「ちよつかい」に傍点]をかけてやらうかしら、あの女の
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング