が、私《わたし》の考《かんが》へて居《ゐ》るばけものは、餘程《よほど》深《ふか》い意味《いみ》の有《あ》るものである。特《とく》に藝術的《げいじゆつてき》に觀察《くわんさつ》する時《とき》は非常《ひぜう》に面白《おもしろ》い。
 ばけものゝ一|面《めん》は極《きは》めて雄大《ゆうだい》で全宇宙《ぜんうちう》を抱括《はうくわつ》する、而《しか》も他《た》の一|面《めん》は極《きは》めて微妙《びめう》で、殆《ほとん》ど微《び》に入《い》り細《さい》に渉《わた》る。即《すなは》ち最《もつと》も高遠《かうゑん》なるは神話《しんわ》となり、最《もつと》も卑近《ひきん》なるはお伽噺《とぎばなし》となり、一|般《ぱん》の學術《がくじゆつ》特《とく》に歴史上《れきしじやう》に於《おい》ても、又《また》一|般《ぱん》生活上《せいくわつじやう》に於《おい》ても、實《じつ》に微妙《びめう》なる關係《くわんけい》を有《いう》して居《ゐ》るのである。若《も》し歴史上《れきしじやう》又《また》は社會生活《しやくわいせいくわつ》の上《うへ》からばけものといふものを取去《とりさ》つたならば、極《きは》めて乾燥無味《かんさうむみ》[#「乾燥無味《かんそうむみ》」は底本では「乾燦無味《かんさうむみ》」]のものとなるであらう。隨《したが》つて吾々《われ/\》が知《し》らず識《し》らずばけものから與《あた》へられる趣味《しゆみ》の如何《いか》に豊富《ほうふ》なるかは、想像《さうざう》に餘《あま》りある事《こと》であつて、確《たしか》[#ルビの「たしか」は底本では「たかし」]にばけものは社會生活《しやくわいせいくわつ》の上《うへ》に、最《もつと》も缺《か》くべからざる要素《えうそ》の一つである。
 世界《せかい》の歴史《れきし》風俗《ふうぞく》を調《しら》べて見《み》るに、何國《なにこく》、何時代《なにじだい》に於《おい》ても、化物思想《ばけものしさう》の無《な》い處《ところ》は決《けつ》して無《な》いのである。然《しか》らば化物《ばけもの》の考《かんが》へはどうして出《で》て來《き》たか、之《これ》を研究《けんきう》するのは心理學《しんりがく》の領分《れうぶん》であつて、吾々《われ/\》は門外漢《もんぐわいかん》であるが、私《わたし》の考《かんが》へでは「自然界《しぜんかい》に對《たい》する人間《にんげん
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