、これを影戯[#「影戯」に丸傍点]と譯《やく》してゐるが、實《じつ》に輕妙《けいめう》である。
 文章《ぶんしやう》の章句《しやうく》においても往々《わう/\》生硬《せいかう》な惡譯《あくやく》があつて、甚《はなは》だしきは何《なん》の事《こと》やら分《わ》からぬのがある。
「注意《ちうい》を拂《はら》[#ルビの「はら」は底本では「けふ」]ふ」だの「近《ちか》き將來《しやうらい》」などは、おかしいけれどもまだ意味《いみ》が分《わ》かるが、妙《めう》に持《も》つてまはつて、意味《いみ》が通《つう》じないのは、まことに困《こ》まる。
 これ等《ら》は日本語《にほんご》を蹂躙《じうりん》するものといふべきである。
 ひるがへつて歐米《おうべい》を見《み》れば、さすがに母語《ぼご》は飽《あ》くまでもこれを尊重《そんてう》し、英米《えいべい》の如《ごと》きは至《いた》るところに母語《ぼご》を振《ふ》りまはしてゐるのである。
 ドイツでも曾《かつ》てラテン系《けい》の言葉《ことば》を節制《せつせい》してなるべく、自國語《じこくご》を使用《しよう》することを奬勵《せうれい》した。
 どれだけ勵行《れいかう》されたかは知《し》らぬが、その意氣《いき》は壯《さう》とすべきである。
       四 漫然たる外語崇拜の結果
 我輩《わがはい》が曾《かつ》てトルコに遊《あそ》んだ時《とき》、その宮廷《きうてい》の常用語《ぜうようご》が自國語《じこくご》でなくして佛語《ふつご》であつたのを見《み》ておどろいた。
 宮中《きうちう》の官吏《くわんり》が互《たがひ》に佛語《ふつご》で話《はな》してゐるのを見《み》てトルコの滅亡《めつばう》遠《とほ》からずと直感《ちよくかん》したのである。
 インドにおいては、地理《ちり》歴史《れきし》の關係《くわんけい》から、北部《ほくぶ》と南部《なんぶ》とでは根本《こんぽん》から言語《げんご》がちがふので、インド人《じん》同士《どうし》で英語《えいご》を以《もつ》て會話《くわいわ》を試《こゝろ》みてゐるのを見《み》てインドが到底《たうてい》獨立《どくりつ》し得《え》ざるゆゑんを悟《さと》つた。
 昔《むかし》支那《しな》において塞外《さくぐわい》の鮮卑族《せんひぞく》の一|種《しゆ》なる拓拔氏《たくばつし》は中國《ちうごく》に侵入《しんにふ》し、黄河流域《こ
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