建築の本義
伊東忠太

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)近頃《ちかごろ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六《むづ》ヶ|敷《し》い

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(例)已《やむ》を[#「已《やむ》を」は底本では「己《やむ》を」]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いち/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 近頃《ちかごろ》時々《とき/″\》我輩《わがはい》に建築《けんちく》の本義《ほんぎ》は何《なん》であるかなどゝ云《い》ふ六《むづ》ヶ|敷《し》い質問《しつもん》を提出《ていしゆつ》して我輩《わがはい》を困《こま》らせる人《ひと》がある。これは近時《きんじ》建築《けんちく》に對《たい》する世人《せじん》の態度《たいど》が極《きは》めて眞面目《まじめ》になり、徹底的《てつていてき》に建築《けんちく》の根本義《こんぽんぎ》を解決《かいけつ》し、夫《そ》れから出發《しゆつぱつ》して建築《けんちく》を起《おこ》さうと云《い》ふ考《かんが》へから出《で》たことで、この點《てん》に向《むか》つては我輩《わがはい》は衷心《ちうしん》歡喜《くわんき》を禁《きん》じ得《え》ぬのである。
 去《さ》りながらこの問題《もんだい》は實《じつ》は哲學《てつがく》の領分《れうぶん》に屬《ぞく》するもので、容易《ようゐ》に解決《かいけつ》されぬ性質《せいしつ》のものである。古來《こらい》幾多《いくた》の建築家《けんちくか》や、思想家《しさうか》や、學者《がくしや》や、藝術家《げいじつか》や、各方面《かくはうめん》の人《ひと》がこの問題《もんだい》に就《つい》て考《かんが》へた樣《やう》であるが、未《いま》だ曾《かつ》て具體的《ぐたいてき》徹底的《てつていてき》な定説《ていせつ》が確立《かくりつ》されたことを聞《き》かぬ。恐《おそ》らくは今後《こんご》も、永久《えいきう》に、定論《ていろん》が成立《せいりつ》し得《え》ぬと思《おも》ふ。若《も》しも、建築《けんちく》の根本義《こんぽんぎ》が解決《かいけつ》されなければ、眞正《しんせい》の建築《けんちく》が出來《でき》ないならば、世間《せけん》の殆《ほと》んど總《すべ》ての建築《けんちく》は悉《こと/″\》く眞正《しんせい》の建築《けんちく》でないことになるが、實際《じつさい》に於《おい》ては必《かならず》しも爾《しか》く苛酷《かこく》なるものではない。勿論《もちろん》この問題《もんだい》は專門家《せんもんか》に由《よつ》て飽迄《あくまで》も研究《けんきう》されねばならぬのであるが。我輩《わがはい》は、茲《こゝ》には深《ふか》い哲學的議論《てつがくてきぎろん》には立《た》ち入《い》らないで、極《きは》めて通俗的《つうぞくてき》に之《これ》に關《くわん》する感想《かんさう》の一|端《たん》を述《の》べて見《み》よう。
 我輩《わがはい》は先《ま》づ建築《けんちく》の最《もつと》も重要《ぢうえう》なる一|例《れい》即《すなは》ち住家《ぢうか》を取《とつ》て之《これ》を考《かんが》へて見《み》るに「住《ぢう》は猶《なほ》食《しよく》の如《ごと》し」と云《い》ふ感《かん》がある。食《しよく》の本義《ほんぎ》に就《つい》て、生理衞生《せいりえいせい》の學理《がくり》を講釋《かうしやく》した處《ところ》で、夫《そ》れ丈《だ》けでは決《けつ》して要領《えうれう》は得《え》られない、何《なん》となれば、食《しよく》の使命《しめい》は人身《じんしん》の營養《えいやう》にあることは勿論《もちろん》であるが、誰《だれ》でも實際《じつさい》に當《あた》つて一々《いち/\》營養《えいやう》の如何《いかん》を吟味《ぎんみ》して食《く》ふ者《もの》はない、第《だい》一に先《ま》づ味《あぢ》の美《び》を目的《もくてき》として食《く》ふのである。併《しか》し味《あぢ》の美《び》なるものは多《おほ》くは又《また》同時《どうじ》に營養《えいやう》にも宜《よろ》しいので、人《ひと》は不知不識《しらず/″\》營養《えいやう》を得《う》る處《ところ》に天《てん》の配劑《はいざい》の妙機《めうぎ》がある。然《しか》らば如何《いか》なる種類《しゆるゐ》の食物《しよくもつ》が適當《てきたう》であるかと云《い》ふ具體的《ぐたいてき》の實際問題《じつさいもんだい》になると、その解決《かいけつ》は甚《はなは》だ面倒《めんだう》になる。熱國《ねつこく》と寒國《かんこく》では食《しよく》の適否《てきひ》が違《ちが》ふ。同《おな》じ風土《ふうど》でも、人《ひと》の年齡《ねんれい》によつて適否《てきひ》が違《ちが》ふ、同《おな》じ年齡《ねんれい》でも體質《たいしつ》職業等《しよくげふとう》に從《したがつ》て選擇《せんたく》が違《ちが》ふ。その上《うへ》個人《こじん》には特殊《とくしゆ》の性癖《せいへき》があつて、所謂《いはゆる》好《す》き嫌《きら》ひがあり、甲《かふ》の好《この》む處《ところ》は乙《おつ》が嫌《きら》ふ處《ところ》であり、所謂《いはゆる》蓼《たで》喰《く》ふ蟲《むし》も好《す》き好《ず》きである。その上《うへ》個人《こじん》の經濟状態《けいざいじやうたい》に由《よつ》て是非《ぜひ》なく粗惡《そあく》な食《しよく》で我慢《がまん》せねばならぬ人《ひと》もあり、是非《ぜひ》なく過量《くわりやう》の美味《びみ》を食《く》はねばならぬ人《ひと》もある。畢竟《ひつきやう》十|人《にん》十|色《いろ》で、決《けつ》して一|律《りつ》には行《ゆ》かぬもので食《しよく》の本義《ほんぎ》とか理想《りそう》とかを説《と》いて見《み》た處《ところ》で實際問題《じつさいもんだい》としては餘《あま》り役《やく》に立《た》たぬ。夫《そ》れよりは「精々《せい/″\》うまい物《もの》を適度《てきど》に食《く》へ」と云《い》ふのが最《もつと》も簡單《かんたん》で要領《えうれう》を得《え》た標語《へうご》である。建築《けんちく》殊《こと》に住家《ぢうか》でも、正《まさ》にこの通《とほ》りで、「精々《せい/″\》善美《ぜんび》なる建築《けんちく》を造《つく》れ」と云《い》ふのが最後《さいご》の結論《けつろん》である。然《しか》らば善美《ぜんび》とは何《なん》であるかと反問《はんもん》するであらう。夫《それ》は食《しよく》に關《くわん》して述《の》べた所《ところ》と同工異曲《どうこうゐきよく》で、建築《けんちく》に當《あ》てはめて云《い》へば、善《ぜん》とは科學的條件《くわがくてきでうけん》の具足《ぐそく》で美《び》とは藝術的條件《げいじゆつてきでうけん》の具足《ぐそく》である。さて、夫《そ》れが實際問題《じつさいもんだい》になると、土地《とち》の状態《じやうたい》風土《ふうど》の關係《くわんけい》、住者《ぢうしや》の身分《みぶん》、境遇《きやうぐう》、趣味《しゆみ》、性癖《せいへき》、資産《しさん》、家族《かぞく》、職業《しよくげふ》その他《た》種々雜多《しゆ/″\ざつた》の素因《そいん》が混亂《こんらん》して互《たがひ》に相《あい》交渉《かうせう》するので、到底《たうてい》單純《たんじゆん》な理屈《りくつ》一|遍《ぺん》で律《りつ》することが出來《でき》ない。善《ぜん》と知《し》りつゝも夫《それ》を行《おこな》ふことが出來《でき》ない、美《び》を欲《ほつ》しても夫《それ》を現《あら》はすことが出來《でき》ない、已《やむ》を[#「已《やむ》を」は底本では「己《やむ》を」]得《え》ず缺點《けつてん》だらけの家《いへ》を造《つく》つて、その中《なか》に不愉快《ふゆくわい》を忍《しの》んで生活《せいくわつ》して居《ゐ》るのが大多數《だいたすう》であらうと思《おも》ふ。
 建築《けんちく》の本義《ほんぎ》は「善美[#「善美」に白丸傍点]」にあると云《い》ふのは、我輩《わがはい》の現今《げんこん》の考《かんが》へである。併《しか》し或《あ》る人《ひと》は建築《けんちく》の本義《ほんぎ》は「安價で丈夫[#「安價で丈夫」に白丸傍点]」にあると云《い》ふかも知《し》れぬ、又《また》他《た》の人《ひと》は建築《けんちく》の本義《ほんぎ》は「美[#「美」に白丸傍点]」であると云《い》ふかも知《し》れぬ。又《また》他《た》の人《ひと》は建築《けんちく》の本義《ほんぎ》は「實[#「實」に白丸傍点]」であると云《い》ふかも知《し》れぬ。孰《いづ》れが正《せい》で孰《いづ》れが邪《じや》であるかは容易《ようい》に分《わか》らない。人《ひと》の心理状態《しんりじやうたい》は個々《こゝ》に異《こと》なる、その心理《しんり》は境遇《きやうぐう》に從《したが》て[#「從《したが》て」はママ]移動《いどう》すべき性質《せいしつ》を有《もつ》て居《ゐ》る。自分《じぶん》の一|時《じ》の心理《しんり》を標準《へうじゆん》とし、之《これ》を正《たゞ》しいものと獨斷《どくだん》して、他《た》の一|時《じ》の心理《しんり》を否認《ひにん》することは兎角《とかく》誤妄《ごもう》に陷《おちい》るの虞《おそ》れがある。これは大《おほい》に考慮《かうりよ》しなければならぬ事《こと》である。
 莫遮《それはさうと》現今《げんこん》建築《けんちく》の本義《ほんぎ》とか理想《りさう》とかに就《つい》て種々《しゆ/″\》なる異論《ゐろん》のあることは洵《まこと》に結構《けつこう》なことである。建築界《けんちくかい》には絶《た》へず何等《なんら》かの學術的風波《がくじゆつてきふうは》がなければならぬ、然《しか》らざれば沈滯《ちんたい》の結果《けつくわ》腐敗《ぶはい》するのである。偶《たま》には激浪《げきらう》怒濤《どたう》もあつて欲《ほ》しい、惡風《あくふう》暴雨《ぼうう》もあつて欲《ほ》しい、と云《い》つて我輩《わがはい》は決《けつ》して亂《らん》を好《この》むのではない、只《た》だ空氣《くうき》が五|日《か》の風《かぜ》に由《よつ》て掃除《さうぢ》され、十|日《か》の雨《あめ》に由《よつ》て淨《きよ》められんことを希《こひねが》ふのである。世《よ》の建築家《けんちくか》は勿論《もちろん》、一|般《ぱん》人士《じんし》が絶《た》へず建築界《けんちくかい》に問題《もんだい》を提出《ていしゆつ》して論議《ろんぎ》を鬪《たゝか》はすことは極《きわ》めて必要《ひつえう》なことである。假令《たとひ》その論議《ろんぎ》が多少《たせう》常軌《じやうき》を逸《いつ》しても夫《それ》は問題《もんだい》でない。これと同時《どうじ》にその論議《ろんぎ》を具體化《ぐたいくわ》した建築物《けんちくぶつ》の實現《じつげん》が更《さら》に望《のぞ》ましいことである。假令《たとひ》その成績《せいせき》に多少《たせう》の缺點《けつてん》が認《みと》められても夫《それ》は問題《もんだい》でない。問題《もんだい》は各自《かくじ》その懷抱《くわいほう》する所《ところ》を遠慮《えんりよ》なく披瀝《ひれき》した處《ところ》のものが、所謂《いはゆる》建築《けんちく》の根本義《こんぽんぎ》の解決《かいけつ》に對《たい》して如何《いか》なる暗示《あんじ》を與《あた》へるか、如何《いか》なる貢献《こうけん》を致《いた》すかである。
 建築《けんちく》の本義《ほんぎ》、夫《それ》は永久《えいきう》の懸案《けんあん》である。我輩《わがはい》は今《いま》俄《にわ》かに之《これ》が解決《かいけつ》を望《のぞ》まない、ただいつまでも研究《けんきう》をつゞけて行《ゆ》き度《た》い、世《よ》に建築《けんちく》てふ物《もの》の存在《そんざい》する限《かぎ》り、いつまでも論議《ろんぎ》をつゞけて行《ゆ》き度《た》い。今日《こんにち》建築《けんちく》の根本義《こんぽんぎ》が決定《けつてい》されなくとも深《ふか》く憂《うれ》ふるに及《およ》ばない。安《やす》んじて汝《なんじ》の好《この
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