的風波《がくじゆつてきふうは》がなければならぬ、然《しか》らざれば沈滯《ちんたい》の結果《けつくわ》腐敗《ぶはい》するのである。偶《たま》には激浪《げきらう》怒濤《どたう》もあつて欲《ほ》しい、惡風《あくふう》暴雨《ぼうう》もあつて欲《ほ》しい、と云《い》つて我輩《わがはい》は決《けつ》して亂《らん》を好《この》むのではない、只《た》だ空氣《くうき》が五|日《か》の風《かぜ》に由《よつ》て掃除《さうぢ》され、十|日《か》の雨《あめ》に由《よつ》て淨《きよ》められんことを希《こひねが》ふのである。世《よ》の建築家《けんちくか》は勿論《もちろん》、一|般《ぱん》人士《じんし》が絶《た》へず建築界《けんちくかい》に問題《もんだい》を提出《ていしゆつ》して論議《ろんぎ》を鬪《たゝか》はすことは極《きわ》めて必要《ひつえう》なことである。假令《たとひ》その論議《ろんぎ》が多少《たせう》常軌《じやうき》を逸《いつ》しても夫《それ》は問題《もんだい》でない。これと同時《どうじ》にその論議《ろんぎ》を具體化《ぐたいくわ》した建築物《けんちくぶつ》の實現《じつげん》が更《さら》に望《のぞ》ましいことである。假令《たとひ》その成績《せいせき》に多少《たせう》の缺點《けつてん》が認《みと》められても夫《それ》は問題《もんだい》でない。問題《もんだい》は各自《かくじ》その懷抱《くわいほう》する所《ところ》を遠慮《えんりよ》なく披瀝《ひれき》した處《ところ》のものが、所謂《いはゆる》建築《けんちく》の根本義《こんぽんぎ》の解決《かいけつ》に對《たい》して如何《いか》なる暗示《あんじ》を與《あた》へるか、如何《いか》なる貢献《こうけん》を致《いた》すかである。
 建築《けんちく》の本義《ほんぎ》、夫《それ》は永久《えいきう》の懸案《けんあん》である。我輩《わがはい》は今《いま》俄《にわ》かに之《これ》が解決《かいけつ》を望《のぞ》まない、ただいつまでも研究《けんきう》をつゞけて行《ゆ》き度《た》い、世《よ》に建築《けんちく》てふ物《もの》の存在《そんざい》する限《かぎ》り、いつまでも論議《ろんぎ》をつゞけて行《ゆ》き度《た》い。今日《こんにち》建築《けんちく》の根本義《こんぽんぎ》が決定《けつてい》されなくとも深《ふか》く憂《うれ》ふるに及《およ》ばない。安《やす》んじて汝《なんじ》の好《この
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