あい》交渉《かうせう》するので、到底《たうてい》單純《たんじゆん》な理屈《りくつ》一|遍《ぺん》で律《りつ》することが出來《でき》ない。善《ぜん》と知《し》りつゝも夫《それ》を行《おこな》ふことが出來《でき》ない、美《び》を欲《ほつ》しても夫《それ》を現《あら》はすことが出來《でき》ない、已《やむ》を[#「已《やむ》を」は底本では「己《やむ》を」]得《え》ず缺點《けつてん》だらけの家《いへ》を造《つく》つて、その中《なか》に不愉快《ふゆくわい》を忍《しの》んで生活《せいくわつ》して居《ゐ》るのが大多數《だいたすう》であらうと思《おも》ふ。
建築《けんちく》の本義《ほんぎ》は「善美[#「善美」に白丸傍点]」にあると云《い》ふのは、我輩《わがはい》の現今《げんこん》の考《かんが》へである。併《しか》し或《あ》る人《ひと》は建築《けんちく》の本義《ほんぎ》は「安價で丈夫[#「安價で丈夫」に白丸傍点]」にあると云《い》ふかも知《し》れぬ、又《また》他《た》の人《ひと》は建築《けんちく》の本義《ほんぎ》は「美[#「美」に白丸傍点]」であると云《い》ふかも知《し》れぬ。又《また》他《た》の人《ひと》は建築《けんちく》の本義《ほんぎ》は「實[#「實」に白丸傍点]」であると云《い》ふかも知《し》れぬ。孰《いづ》れが正《せい》で孰《いづ》れが邪《じや》であるかは容易《ようい》に分《わか》らない。人《ひと》の心理状態《しんりじやうたい》は個々《こゝ》に異《こと》なる、その心理《しんり》は境遇《きやうぐう》に從《したが》て[#「從《したが》て」はママ]移動《いどう》すべき性質《せいしつ》を有《もつ》て居《ゐ》る。自分《じぶん》の一|時《じ》の心理《しんり》を標準《へうじゆん》とし、之《これ》を正《たゞ》しいものと獨斷《どくだん》して、他《た》の一|時《じ》の心理《しんり》を否認《ひにん》することは兎角《とかく》誤妄《ごもう》に陷《おちい》るの虞《おそ》れがある。これは大《おほい》に考慮《かうりよ》しなければならぬ事《こと》である。
莫遮《それはさうと》現今《げんこん》建築《けんちく》の本義《ほんぎ》とか理想《りさう》とかに就《つい》て種々《しゆ/″\》なる異論《ゐろん》のあることは洵《まこと》に結構《けつこう》なことである。建築界《けんちくかい》には絶《た》へず何等《なんら》かの學術
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